志賀仁郎さんを偲ぶ会
平成28年5月21日八方文化会館 ホール |
平成28年5月21日午後2時半より、志賀さんが愛した白馬八方の八方文化会館にて「志賀仁郎さんを偲ぶ会」が、多くの参列者の方々に来ていただき偲ぶ会が開催されました。
◆志賀仁郎さんの歩み
オーストリアのホテルで滞在中のご夫婦 |
1932年3月10日 東京に生まれる。
小学生の頃、父上の買ってくれたカメラに興味を持つと同時に、スキーとヨットにも親しむようになる。スキーのメッカ新潟県妙高高原池の平に別荘があり、近くは野尻湖もある好環境であった。
スキー競技の写真に興味を持ち始めたのは、オスロ冬季オリンピック(1952年)の頃からで、ニコンの協力で、特別に改良された連続コマ撮りカメラを駆使して、世界のアルペンレーサーを撮り続けた。
また、1968年アメリカ・アスペンで開催された第8回インタースキー(世界スキー指導者会議)で日本チームに同行して撮影したフィルムと解説は、毎日グラフの特集号になった。さらに冬樹社(現スキージャーナル株式会社)から「世界のスキー」=アスペンからの報告書=として刊行され注目された。
国内では、全日本スキー技術選手権大会の取材とともに、技術解説などを長年にわたり行うなど、多くの著書や連載などがある。ホームページの「日本のスキーを語る・shigazin」は、日本のスキーの歴史を知る貴重な資料となっている。
以後、毎年ヨーロッパに滞在してワールドカップを中心にアルペンレーサーを追い続けた。ヨーロッパのジャーナリストの間では”ZIN"の愛称で知られ、レーサーの心を撮る”写心師”と言われた。それらの功績が認められ、2011年、FIS(国際スキー連盟)ジャーナリストアワードを受賞した。
ヨットでは小型ヨットを所有してレースに参加するとともに、友人のクルーザー型ヨットのスキッパーとして、日本の外洋レースの殆どを制覇するなど活躍した。また、世界のヨットのトップレースを取材発表し、ヨット界にも大きく貢献している。
それらの資料は、2010年より長野県白馬村の「白馬・山とスキーの総合資料館」内に志賀仁郎コーナーとして展示される。
2016年2月4日、脳梗塞と肺炎を併発し入院され治療につとめるも、3月13日永眠された。享年84歳であった。
◆ヨットの世界大戦(1977年開催)
イギリスのソレント海峡を中心とした海域で戦い、「ヨットレースの世界大戦」と呼ばれる大レースのショット。大型の外洋レース艇が参加し、凄まじいレースを展開する。 志賀仁郎さんはこのレースに日本チームの艇長として2回参戦する。 |
◆スキーイング表紙写真 志賀仁郎 作品
アメリカのスキー雑誌の多くに志賀仁郎さんの作品が使われた。これはその一つである。ポーランドのワールドカップレーサー、ベーターボバンゲロフのスラローム。 |
◆「90年代のスキー技術」 志賀仁郎 監修
◆「世界のスキー」 志賀仁郎 著書
この本は、クルッケンハウザー教授に絶賛され、世界のスキー指導者、研究者により大きな反響と評価を受けて、「世界のスキーにこれ程大きな影響を与えた本はない」と評価された。 世界のスキーの流れを大きく変えた一冊である。 |
志賀仁郎さんを偲ぶ会 資料