【連載04】 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 Shiga Zin



横浜ランドマークタワー内のオブジェの前で志賀さん(左)と山田さん(右)

◆丸山周司の引退


熱心に話していただきました

横浜ランドマークタワー5Fで

栄光のカール・シュランツ

某スキーメーカー問題となったCM カール

平川仁彦

藤本進

藤本進

藤本進

藤本進

関健太郎
 

 1971年第9回インタースキーは、日本のスキーのレベルの高さを世界に示す大会となった。そのインタースキーの後、日本人スキーヤーの頂点にあった丸山周司は、この年を最後にデモンストレーター選考会を引退した。八方は大きなエースを失うことになった。    

 

◆サッポロオリンピックとカール・シュランツ

 

 次の1972年は、サッポロオリンピックの年であった。東洋の雪と氷の祭典は、開会式前日まで、開催があやぶまれる事態となった。それはIOCのブランデージ会長がスキーのアルペン競技の選手たちの中にオリンピック出場の資格を与えることの出来ないプロがいると主張したためである。オーストリア、フランス、イタリアの有力選手の参加は認められないと通告したのである。
  指名されたチームの首脳たち、サッポロそしてIOCとの折衝が続き、オーストリアは選手団の総引き上げを口にするまでになった。ブランデージ会長の最終案は「オーストリアのスーパースター、カール・シュランツだけはゆるせない」というものであった。
オーストリアは、その日深夜まで「IOC」に屈すべきかで、もめ続けた。「カールが出られないオリンピックなら私も出ないわ!」の意見にカールは静かに語った。「明朝、私はここ(選手村)を出て行く。諸君たちは、全力で戦いオーストリアにメダルを持ち帰って欲しい」 涙でその夜は暮れた。カールは次の日ひとりで選手村を後にした。まわりをかこむジャーナリスト達にカールはこう言った「貧乏人にだってオリンピックのメダルのチャンスがあってもいいじゃないか」と。  

 

◆スイスチームの大勝利、オーストリアチームの不振

 私はサッポロオリンピックを取材していてカールの無念さを思った。
世界中のビックタイトルの全てを手に入れたカールはたったひとつ胸に飾ることのできなかったオリンピックの金メダル、それに挑む最後のチャンスを取り上げられたのであった。
カール・シュランツは、そのシーズン絶好調であった。12月から1月のワールドカップの4つの滑降に4連勝、35歳を超えてのカールのレース振りにヨーロッパの人々は「これでカールの最後の金メダルはサッポロで」と信じていたのである。
カールのいない滑降はルッシー、コロンバソのスイスのエースたちのワン・ツーフィニッシュ、カールのいない大回転も、イタリアの英雄、グスタボ。トニエのものとなった。
そして、「カールが出られないなら私も帰る」と泣いたアネマリー・プロールも、「調子を崩し」スイスの田舎娘、マリーテレーズ・ナディックに金メダルを奪われた。
スイスチームの大勝利、オーストリアチームの不振、それが印象付けられたサッポロであった。

◆八方尾根で第8回デモンストレーター選考会が行われた

 サッポロの熱気の少し前、八方尾根で第8回デモンストレーター選考会が行われた。ガルミッシュ代表となった若者たちが上位を争った。
北海道の藤本が全種目に安定した力を見せ、浦佐のプリンス平川仁彦、ベテランとなった関健太郎が追うという展開になった。その最終日、思いがけない結果が発表された。1位平川仁彦、2位藤本進、3位関健太郎、4位橘康男、5位吉田智与志となったのである。
私は、その結果に疑問を持った。大会後、全ての資料を手に入れ、各種目の得点を検討してみた。
ある種目の得点が不可解だった。上位の中に藤本の名前がなかったのである。ずーっと下位までさがすと信じられない低い点数になっているのである。
何かの作為が感じられた。取材を重ね、私はその当時スキージャーナル誌に連載していた「日本人のスキー」の中で、その問題を書いた。何らかの作為があったと思われるが、八方大会事務局は「数字の見誤り誤記があったのではないか」と語った。
その記事が出た直後SAJのある理事から電話がかかってきた。「志賀さんのおっしゃる通りだと思います。来年の開会式前に、成績の訂正を発表するつもりです」と。
藤本が電話してきた「先生が判ってくれたという事がうれしくて」と泣いた。

◆O社はスキー教師を中心に圧倒的な支持を受けていた

 次の年の1972年、前の年に起きた事は何もなかった様に第9回デモンストレーター選考会は進行した。当時デモンストレーター選考会の周辺には、奇妙な噂が流れていた。「O社のスキーをはかないとデモンストレーターには勝てない」「デモンストレーター選考会ってのはO社の運動会じゃないか」というものであった。
バドガスタインに行った5人は全てO社だったし、それ以降の全てのデモンストレーター選考会はO社のスキーをはく男たちだけの競技会であった。 O社はスキー教師を中心に圧倒的な支持を受けていたのである。
デモンストレーター選考会会場にはO社のテントが立ち、社長は、双眼鏡を持って、必ず会場で全選手の滑りを見守っていた。
Y社をはく藤本をトップにするには、何か気まずい空気があったことがうかがえた。次の年から藤本はスキーをO社にはき替えて出場してきた。
1位藤本進、2位関健太郎、3位吉田智与志、4位三枝兼径、5位深沢悦夫、6位増田千春、7位平川仁彦、8位横沢富敏、9位丸山隆文、10位中村準一となった。
誰もが納得した順位ではなかったろうか。O社スキー以外のスキーをはいていたのは、3位に入ったアルペンレーサー、吉田智与志のN社だけだったのである。
前の年、私に「成績の訂正をする」と言った理事は、その年、理事ではなくなっていた。

◆藤本進の3連勝

 スキーを替えた藤本は勝ち続けた。1972年第9回から1974年第11回まで藤本進の3連勝が記録されている。2位になったのは浦佐の関健太郎。
1975年チェコのビソケタトリで開かれる第10回インタースキー派遣デモンストレーターは、藤本進、丸山隆文、三枝兼径、関健太郎、平川仁彦、本間尚、増田千春、山口正広、佐藤正明、山田博幸の10人であった。
第10回のインタースキーは、新しい指導法、新しい技術・理論の提案はなくインタースキー運動が25年を経過して、新しい流れをさがさなければならないというテーマが与えられることになったと思われた。そのビソケタトリで次の1979年の第11回インタースキーは、日本の蔵王で開催されることが決まった。3年毎に開催されていたインタースキーは次の11回から4年毎となった。

◆デモンストレーター選考会中止の動き

 72年秋に流れたデモンストレーター選考会廃止というショッキングなニュースは、日本のスキー界を揺さぶった。
デモンストレーター選考会は1972年サッポロの年には、第10回を積み上げて日本スキー界の最大の行事となり、一般のスキーファンにとっても見逃せないイベントとなった。そして基礎スキーの全日本選手権大会といえる評価を得るようになった。この行事を囲むムードは華やかなものになっていた。
9回のデモンストレーター選考会を終えた1972年の秋、、SAJの理事会で、当時沸きあがっていたデモンストレーター選考会に対する批判にどう対応するかに激しい議論がかわされた。
その批判は要約すると次の3点に絞られていた。
@「コマーシャリズムとの癒着が目立ち健全なアマチュアスポーツをゆがめている。」
A「採点の方法が不明確であり順位、評価に作為の入り込む余地がある。」
B「選ばれたデモンストレーターのSAJ組織内の位置づけが不明確である。」
というもの。そして中間的な意見として「デモンストレーター選考会が行われて来た10年間に基礎スキー界が充分に発展して、もはやこうした行事は意味を持たなくなった」といった意見もあった。
サッポロオリンピックを成功裡に終わらせたと考える若尾理事たちが、廃止論を唱え、教育本部の理事たちが存続を主張した。
9月3日、スキー連盟理事会は、デモンストレーター選考会廃止を決定。そのニュースは、日本のスキー界をゆり動かす大騒動に発展した。ところがその決定は3週間の時を経て撤回された。そこに何があったか、私たちは知らない。

◆第10回は、藤本進の圧勝

 何かが変わると期待された第10回デモンストレーター選考会は、3月下旬の八方尾根で開かれた。ほとんど何の変化も感じられなかった第10回だが、予選の種目、方法が変わり、第1日目の予選5種目の成績上位60人が本選に出場することになった。
しかも、予選種目は、シュテムクリスチャニアからパラレルクリスチャニア。パラレルクリスチャニアからウェーデルンといった2つを組み合わせたものとなり、かなり、過酷なものとなった。
快晴の中で予選が終わったが、その夜から八方は春の嵐に襲われていた。悪天候によって本選の9種目は4種目がカットされた。カットされた種目は、急斜面パラレル。中斜面ウェーデルン。ゲレンデシュプルング。悪雪滑降である。どの種目も過去のデモンストレータ選考会で、名勝負と呼ばれる記憶を残し、名手と呼ばれる男達の名前を刻みつけた種目であった。
すさまじい雨の中で5種目が消化され1位藤本進、2位関健太郎、3位三枝兼径となった。1位・2位の差は24点。藤本の圧勝であった。6位にアルペン競技の世界に居た八方の丸山隆文が入った。

◆自ら信ずる道を歩み続けた、吉田智与志の引退

 この大会で極めて特異な経歴を持つデモンストレーターが引退を表明した。第6回大会からこの10回まで常に上位にあった、吉田智与志であったが、ようやく脚力の衰えを見せて9位に後退、この年、吉田は36歳になっていた。
北海道、富良野で双子の兄弟として生まれた吉田は、兄の猛が早大、弟の強が日大に進み、兄弟で共にインカレ、全日本、国体を闘い、1960年スクオーバレーオリンピックの強化指定選手となり、オリンピックを目指していた。スクオーバレーの夢をたたれた吉田は1968年、自費でアスペンインタースキーを見学したのである。「世界は変わる」吉田はそう確信して帰国した。その時30才。アスペンのデモンストレーターを別枠として行われた第5回デモンストレーター選考会に出場12位となった。
当時オーストリアスキーに傾斜を深めていた日本の基礎スキー界で、競技からの参入そしてフランススキー技法への確信に満ちた吉田のスキーはかなり異質なものに見えた。


吉田智与志

吉田智与志


 そうした空気の中でも吉田は自ら信ずる道を歩み続けた。初出場の68年5回初出場12位となった吉田は、続く69年6回4位、7回4位、8回6位、9回3位と上位を占め続け、10回大会まで、日本のスキー界に影響を与え続けた。
吉田は、ガルミッシュインタースキーに参加した後、日本チームと別れ、シャモニーのENSAを訪れ、ほぼ1年間、フランスのスキーを学び、フランススキーに対する更なる確信を得て帰国している。
吉田のスキーは当時、日本のスキー界で研究されていた新技法、曲進系技法にも通ずるものであった。

◆蔵王インタースキーに向けての新たな挑戦が始まった

 地元、日本で開催される蔵王インタースキーに出たい。それはスキーをする若者たちに大きな夢が与えられた。ビソケタトリ75年から4年間、デモンストレーター選考会は蔵王に向けた代表権争いとなった。
藤本が行き、関健太郎が追う、その図式の中に新しい芽が育っていた。八方尾根の丸山隆文、三枝兼径、浦佐の山田博幸、そして東京から出場する増田千春、本間尚らであった。
藤本とトップを争っていた関健太郎も引退した。北海道に出現したデモ屋の藤本と八方尾根、浦佐の戦いは終わり、蔵王インタースキーに向けての新たな挑戦が始まったのである。
蔵王インタースキーの前の1977年、第14回のデモンストレーター選考会の上位は、丸山隆文、佐藤正明、山口正広、山田博幸、中村準一、相田芳男、長谷川昭次、三枝兼径、小幡秀夫、小沢哲となった。

◆お祭り、そして国際親善は、蔵王のインタースキーで見事に果たされた

 1979年、第11回インタースキーが日本蔵王で開かれた。
そのインタースキーは過去10回のインタースキーと全く違うものとなっていた。世界のスキー国の指導者、研究者が集まってスキーに関する情報を交換し、スキーの技術を比較し会い指導理論を戦わせる場、ととらえられていた面は、蔵王ではほとんど忘れ去られていた。そして、世界中のスキー関係者が4年に1度集まって親睦を深めるという側面だけが目についたお祭りになった。
日本のスキー関係者の「インタースキーは基礎スキーのオリンピックだ」とする説明に納得して地元の山形県山形市、そして蔵王温泉村は、この行事を支援することになった。
雪上に設けられたデモバーンでは、各国競って、華麗なスキーショウを展開し、夜の温泉街は、世界中のスキー教師たちの交友の場となった。その交友の輪の中には、多数の日本人女性がいた。国際親善、それは蔵王インタースキーで見事に果たされた。

◆藤本のひきいる集団を「藤本厩舎」と呼ぶようになった

 第11回インタースキーには、日本人のデモンストレーターは、40人が認められ30人のSAJデモンストレーターと10名のSIAデモンストレーターが参加した。その30人の中に、現役をしりぞいていた藤本が作った、何人かのデモンストレーターがいた。佐藤正人、吉田幸一らである。
藤本はデモンストレーターを引退したあと、デモンストレーターを養成する、塾を開いていたのである。北海道でデモンストレーターを目指す若いスキーヤー達を集めデモンストレーターになるための技術を徹底的にたたき込んでいた。
どういう、滑り方をすれば、高得点をひき出せるか。細かい部分まできびしく指導していた。「ターンの途中でストックのリングの雪面からの高さが、どの程度あったらいいか」と言ったことまで、注意の声が飛んでいた。
若者たちの滑りは、様式美を極めて、正確で美しいものに仕上げられていった。
1979年蔵王インタースキー、以後のデモンストレーター選考会の上位は藤本門下のスキーヤー達によって占められる様になった。誰、言うとなしに、藤本のひきいる集団を「藤本厩舎」と呼ぶようになった。

◆日本人はスキーを楽しむ方法をヨーロッパの人々と違った方向に求めている

 蔵王インタースキー開催中のある日、フランツ・ホッピヒラー教授を案内して、ざんげ坂から地蔵山頂まで行った。その時教授は日本の一般スキーファン達の行動を初めて見たのである。
SAJの教修会、などに招かれて来日したときの日本のスキー教師たちの技術を知り、サンクリストフに来る日本人スキー教師を教えてきた教授は、日本の一般スキーファン達を見る機会がなかったのである。
「ジン、日本人は何故、あんなに転ぶのか、何か日本人だけが違う骨格を持っているのではないか、とさえ思えるよ」と語り、ざんげ坂のコブ斜面で転んでいるスキーヤーたちをあきれて見ていた。そこには、コブの斜面で転んで、キャーキャー笑っている日本のスキーヤーが居た。「何で転んでいるのに笑っているのか」教授には理解の出来ない現象であった。
「日本人はスキーを楽しむ方法をヨーロッパの人々と違った方向に求めている」それが教授の日本のスキーに対する新しい認識であった。

◆インタースキー運動の原点に戻す

 その蔵王で次の第12回インタースキーがイタリアのセクステンで開催されることが決まった。40年、ヨーロッパのスキー場に居る私でも知らないセクステンであった。
イタリアの代表、フインク教授が語った。「インタースキーは、こうしたお祭りではない。イタリアは次のインタースキーをインタースキー運動の原点に戻すために準備する」と。

(連載05へつづく)


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

copyright(c)2004-2018 Zinro Shiga Rights Reserved.