【連載24】90年代のスキー技術その2 Shiga Zin


※連載24は、連載23からの続きとなります。


第44回技術選のウエルカムパーティ会場で金子イクザミナーと志賀さん

 


「90年代のスキー技術」
志賀仁郎 監修

ブルーガイドSKI’91別冊
実業之日本社

 



◆佐藤 譲


(さとう・ゆずる)1961年5月1日生まれ。
北海道出身。
88年にナショナルチームの選手として技術選初出場し、いきなり2位。90年の第27回技術選で、念願の初優勝。スラロームスペシャリストの技術に、基礎スキーの幅が加わってきた

最高点を出した急斜面ウェーデルン。
縦にスキーを走らせようという意識が読み取れる。膝を胸の下に抱え込む技法で、雪面をしっかりとらえ、前にスキーを走らせる

完璧といっていいパラレルターンだ。
斉木、森、そしてこの佐藤譲の3人のターンに、近代技法の求める理想が読み取れるのである

3年目に獲得した日本一の座。
縦にスキーを走らせると主張し、
攻めに徹したムードのスキーは
日本のスキーを変えるか。

 「縦にターンをつなげていく」
佐藤譲は常にそう主張する。フォールラインに向けて、縦長の弧で、前へスキーを落とし込んでいくという意識が働いているのだろう。
急斜面ウェーデルンの写真をみてもわかるが、他のどの選手よりも、スキーとフォールラインとの角度が浅いのである。そして、スキーがフォールラインからいちばん遠く離れる、ターン弧のもっとも深い部分での、雪面へのスキーの押しつけが強い。
そして、フォールラインをクロスする部分で、その圧力を、膝を上体の下にかかえこむようにする動作によって吸収し、スムーズにスキーを前に走らせている。
こうした一連のスキー操作は、近代的なスラロームの技法である。そして、それはまた、もっとも新しいスキーテクニックとして注目されている、「ジェット技法」と呼ばれるものに共通する要素がある。
3年前、ナショナルチームの現役選手の肩書きのまま、技術選初出場。八方の硬いピステは、もっとも得意とした制限滑降で失敗し、翌年はゲレンデシュプルングで涙をのんだ。ともにその失敗さえなければ、トップを手中にすることは、ほぼ確実であっただけに、今大会に期するものは大きかっただろう。そして、見事に3度目の挑戦で初勝利をとげる。
しかし、その成績もさることながら、佐藤譲の功績は、速さ、強さの技術選を、質の高い走りと切れで戦う技術選へ変える、起爆剤の役割を果たしたことにあるといえるだろう。

・両スキーが雪面をとらえている点がポイント

 外側に下肢を伸ばして、雪面を横方向の壁を作るように、ターンの最も深い部分で圧をかける。こうしたやりかたは、かつてステンマルクが、10数年前に発見した方法であった。そうした技法は、世界のトップレーサーたちによってトレースされ、世界の技法の常識となった。
そのスキーを外に放り出すようなターンを、佐藤譲は見事に演じている。上体の通る軌道と下肢、スキーの通る軌道とが、大きくズレるということは、それだけバランス感覚がよくないと危ないわけで、彼のスキーには、その巧みなバランスが見えて楽しい。
とくに注目したいのは、このフォールラインにスキーが向いたとき、両スキーがしっかりと雪面をとらえていることである。
とかく外スキーの内エッジに乗り切ることで、切れるターンが生まれると思われがちだが、こうした両方のスキーが常に雪面をとらえるスキーこそ、より切れる、より走るスキーの基本なのである。
雪面にはりついて、切れのいいターンを仕上げる。それは、安定した上体、柔軟な下肢、そして、からだの運動とスキーの動きとをマッチさせていく、優れたバランス感覚がなければできるものではないのだ。

1989年 八方尾根 総合滑降 2位/286ポイント
佐藤 譲

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1991年 八方尾根 小回り急斜面不整地 3位/280ポイント
佐藤 譲

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆斉木隆


(さいき・たかし)1960年1月26日生まれ。
新潟県出身。
ダウンヒルのスペシャリストとしてワールドカップなどで活躍。ケガを機に基礎スキーに転向し、86年デモ初認定。長身を生かした美しい滑りに。ファンが多い

急斜面ウェーデルン。
小気味のいいリズムの急斜面ウェーデルン。
高いフォームから軽快に舞ったスキーには、
気持ちのいいリズムがある。華のあるスキーだ

パラレルターン。
種目別のトップをとった、美しく完璧なパラレルターン。軽快なリズムに乗った、スムーズで切れ、走る、先鋭なスキー技法だ。

速さの時代を招きよせた
ダウンヒルスペシャリスト
高く美しいフォームで、
日本の新しいスキーをリードする。

 とにかく斉木隆はカッコイイのである。ナショナルチームの滑降選手として、ワールドカップのピステで大ケガ。下肢切断の危機を乗り越えて復帰。そして技術選の鮮烈なデビュー。そのエピソードも、涙々の青春ロマンの主人公だ。
そして、長身、おシャレ、そのうえスキーがバカウマとくれば、スーパースターにならなきゃオカシイ、そんな男なのだ。
第27回技術選でも、東京都予選から終始トップをキープする絶好調で、斉木は八方尾根でもやはり主役だった。1日で6種目も消化する強行スケジュールのなかで、各種目が終るたびに、斉木隆の充実と、やる気が伝えられていた。
1日目の6種目で、7位、1位、3位、3位、2位、6位と、すべて上位を占めた。その完成度の高さ、そして安定感は、この男が日本一になることを確信させていたのある。
雨と霧、そして吹きつける強風。最悪のコンディションで、選手たちは制限滑降のスタートを待った。その待ちは、どれほど過酷であったろうか。冷えきったからだでゴールに飛びこんだとき、渡辺一樹とのタイム差は0秒10、非情な差がつけられた。0.5点差のリードは消えた。
無念の唇をかむ斉木に、だれもが心からの賛辞を送る。佐藤譲も渡辺一樹も、そして金子、我満、まわりを囲んだすべてのファンたちも、斉木の美しいスキーにこころから拍手を送ったのだ。

・ワールドカップの最新技術に共通する要素

 斉木隆のスキーの特徴といえば、高い姿勢の美しいシルエットである。そして動きは、風に舞う花びらのようにヒラヒラと軽やかだ。
その斉木がこの技術選に見せた、もっとも美しい一瞬が、このパラレルターンだ。長身を、ゆったりとゆするように体軸を使ったスキーで、こうした動きは、他のだれもが真似ることのできない独特のものといえるだろう。ケガをした膝、曲がらない膝が、逆にこうした高度なバランスを身につけさせたのである。
速いスピードでのこうした技法は、ときには破綻を招くものだが、彼のスキーからはそうした不安は感じ取れない。
他の選手たちは、下肢の曲げ伸ばしで上下動を作り出すが、斉木は、上体を上に釣り上げるようにして上方向へ伸ばし、わずかな膝の曲げで沈み込みを作る。そして、前のターンのフォールラインに向いたそのときに、内スキーを雪面に押しつけ、内膝をわずかにゆるめることでそのスキーを前に走らせて、次のターンを始動させている。こうした、始動期を早めたターンは、最近のワールドカップのスラロームの深まわり、また大回転のターンにみられる最新技法に通じるものである。
ターンは、スムーズな曲線軌道をつなぎ合わせたもの、斜滑降と斜滑降を結びつけるものとした古い概念を捨てなければ、新しいターンを理解することはできない。
フォールラインから始まるターンは、Sの字を横にしたようなラインを作る。切れる、走るターンとはこうしたターンなのだ。

1989年 八方尾根 総合滑降 6位/283ポイント
斉木 隆

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1989年 八方尾根 小回急斜面不整地 3位286ポイント
斉木 隆

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆沢田敦


(さわだ・あつし)1958年8月2日生まれ。
青森県出身。
80年のレイクプラシッド・オリンピックで回転15位という成績をひっさげ、86年技術選デビュー。現在、日本の基礎スキーの可能性を押し広げる期待がもっともかかるプレーヤーのひとり

パラレルターン
舵取りの時間が長い、それは、両スキーがしっかりと雪面をとらえていることを意味している。
美しく、丁寧なターンだ。

オリンピック出場のキャリアは
技術選にどう生かされたか。
いま、もっとも注目すべき
曲線軌道をつなぐスキーとは。

 沢田敦は、第23回技術選(86年)の焦点であった。ナショナルチームからの参入者は、斉木隆がすでにいたが、沢田敦には、それに加えて、80年のレイクプラシッド・オリンピック・回転15位の記録がついてきた。
多くの人々の期待は、重いプレッシャーとなって、沢田敦にのしかかった。
「そんなはずがない15位」というのが、最初の年の成績であった。
あまりにいろんな人のいうことを信じこみ、頭のなかでスキーがバラバラになった。それが翌年、「自分のスキーをしようとして、失敗した」となって惨敗。
3年目にようやく「やっと沢田は自分のスキーをつかんだ」といわれ、5位に浮上し、その年のデモンストレーターにも選ばれた。
「スキーはうまい」
だれもそう評価する。第27回技術選の前走をつとめたオーストリアのデモたちが「沢田はなぜもっと上位にいないのか。上位3人と同じレベルにあるのに」といぶかっていたが、それは6種目に、3位、6位、5位、4位、7位、5位と、すべて上位を占めながら、たった1種目、ゲレンデシュプルングをトップと10点差の54位となった失敗がたたっているのである。
彼のもっている可能性は、佐藤譲や斉木隆とくらべても、さらに高いといえる。曲線から曲線を結んでいく、というスキーは、じつに美しく、また、見ていて気持ちがいい。その技法の秘密は、ターンを始動させる位置の高さ、そして踏み込んだスキーに乗ってからの舵取り期の安定感と、その長さといえるだろう。ターンは、シュッと切れ込んで、さらにスーッと切れていくのである。

1988年 八方尾根 総合滑降 1位/283ポイント<br>
沢田 敦

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1989年 八方尾根 小回り急斜面不整地 4位/284ポイント
沢田 敦

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆渡辺一樹


(わたなべ・かずき)1964年1月5日生まれ。
長野県出身。
86年、中央大学在学中に学連枠から技術選初出場。以降着実に順位を上げ、88年、89年と連続優勝。88年にはデモ初認定を受ける。
おとなしそうな外見だが、大会中は勝負師

パラレルターン
彼のパラレルターンの特徴は、両スキーをやや開いた、広いスタンスにある。そして、常にいい位置にからだを乗せて、スキーの性能をひきだしていく。いわゆる外力の利用のうまさのみえるスキーだ。

急斜面ウェーデルン
佐藤譲につぐ高い評価を受けた急斜面ウェーデルンの演技。「この種目だけは」という自負を感じられる。ひとつひとつの動作が完璧にこなしていく、まさに一級品の完成度だ。

元インカレのチャンピオンは、
安定した上体と柔らかい下肢で、速さ、強さの時代を、
切れと走りの時代に変えた。

 86年の第23回技術選に、初めて学連の2名の出場枠ができ、その最初の出場者となったのが渡辺一樹であった。その年、制限滑降で、さすが学連のスラロームスペシャリストを思わせたが、それ以外の印象があまりない。
続く第24回、渡部三郎、佐藤正人が同点1位となった大会で、いくつかの高速種目でいい成績を収め、総合12位に顔を出した。
競技スキーしか知らなかった渡辺一樹が、地元栂池でスキー教師をしながら消化した基礎スキーが、その成果だった。しかしそのすべりは、基礎スキーを意識するあまり、フォームにこだわりバラバラになっていた。
それが、25回大会では、ノーマークから一気にトップに躍り出たのである。
「迷いが消えて、自分なりのスキーが出来ました。多くの先輩たちのスキーから、いろんなことを学びました」
「器用さ」、と人はその技術を評価する。
第26回大会に、渡辺一樹はひとまわり大きくなって八方に戻ってきた。より正確に、より安定感を増して、トップを快走する。予選1位、決選では、1位3種目、2位3位が1種目ずつ、そして2種目で4位と、圧倒的な安定感であった。急斜面ウェーデルン、総合滑降は、ひとり舞台といえるほど、スキーが冴えていた。
やや小柄なからだをうまく使って、いつもいい位置に乗りきる。そのスキーは見ていて気持ちのいいものだった。
第27回は、3年連続優勝の期待がかかる、まさに正念場であった。佐藤譲、斉木隆と最終種目まで争った結果は、わずか0.5点差の2位となったが、3人が1位といっていいほど内容の高い2位だったのである。

・技術選を勝ち抜く”戦略”

 そのやさしそうな表情からは読み取れないことだが、渡辺一樹はしたたかな勝負師である。技術選を勝つための戦略を編みあげ、武器を研ぎあげ、どう使うか戦術を練る。そして、その戦場に臨んでは、見事なまでの集中力を見せて、その場を圧していく。
八方でみた凄さを、紹介してみたい。どのスポーツでも、採点スポーツは、演ずる者と採点する者が対峙しあうことになる。そこには、一対一の真剣勝負に似た緊迫した空気がある。
採点者に対峙した時、渡辺一樹は、他の選手と違った戦略をもっているようだ。スタートの旗がふられ「ヨシッ」と声がかかる。その一瞬のひと呼吸、一拍の間をおく。その一拍の間は、たんたんと流れていた時間を、一瞬止めてしまう。
「一樹が来る」
採点する審判員に、その一瞬が、身構えをうながすのだ。流れる時を止めてスタートするとき、ギャラリーの視線も集まっているのである。
次の瞬間から、まわりは一樹のスキーに集中し、手拍子を送る。ギャラリーを味方につける、絶好の戦略である。沸きあがる喚声のゴールへ、スピードをあげながら突入してくれば、審判員の目には、他のだれのスキーよりも高い評価を与え得るスキーとして、そのスキーがみえているはずである。
スタートから、けっして派手なパフォーマンスはみせない。手探りで雪面をなでるように前半をいき、リズムを正確につかんだ途中から一気に勝負に出る。そんな戦略は。見事は成果を勝取っているのだ。
予選段階ですら「ちょっと評価がよすぎるんでは」と、自分で思っていたという。そして、その波を崩さないように気を配り、審判員、観衆を味方にひき入れて、王道を走り抜ける。渡辺一樹は、頭のいいスキーヤーだ。
1986年初出場から20年を越えるキャリアーを持つ日本のもっともすぐれたデモである。そして今もなほ現役として滑り続けている。

1989年 八方尾根 総合滑降 1位/288ポイント
渡辺一樹

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1992年 尾瀬岩鞍 小回り急斜面不整地 1位/288ポイント
渡辺一樹

 

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆渡部三郎


(わたなべ・さぶろう)1956年8月11日生まれ
山形県出身。
キャリア13年の超ベテラン。86年、87年の技術選で連続優勝。常に日本のスキーの方向を示す役割を果たしてきた。

急斜面ウェーデルン
得意種目である。スキーの反発力を使い、歯切れのいいターンをつなぐ。そのひとつひとつの弧が丸く切れているのが特徴だ。

速さ、巧みさを兼ね備えた
ベテランプレイヤー
それでも、いま、なお
技術革新が進行中

 「サブちゃん」とだれもが親し気に呼ぶが、すでに技術選出場13回、超の字がつくベテランと呼ばなければならないキャリアを持っている。
しかし、その重さを感じさせることがない。いつでも新人のような、フレッシュなすべりをみせてくれるのである。
日本のスキーが、形、フォームを重視した様式美の世界から、速さ、強さをいったスポーツとしてのスキーを志向したとき、その交差点に渡部三郎が立っていた。
86年の第23回技術選で、佐藤正人を退けて初優勝、続く24回大会にも、佐藤正人と同点1位で2連勝をかざって、日本の基礎スキーを速さ、強さの時代へ切り換えたのである。
第27回技術選は、最初の種目のステップターンで、バランスを崩して、276点の20位とスタートにつまずいたが、続くパラレルターンに3位、中斜面ウェーデルンにトップと立ち直り、周囲を安心させた。
形のスキーから速さのスキーへの交差点をつくったサブローは、いま、その円熟した技で、速さ強さの時代を技の時代に向ける仕事を成しとげようとしている。
速さのサブローから技のサブローへの変身は、日本のスキーが速さへの傾斜を強め始めた頃から開始されている。
サブちゃんのスキーがいい。その評価はすでの初優勝の86年以前からあったのである。常にスキーの真上に乗る、スキーの性能をいっぱいに使う、といった彼の考え方は、近代スキー技法の思想となっているのである。

1989年 八方尾根 総合滑降 3位/285ポイント
渡部三郎

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1988年 八方尾根 小回り急斜面不整地 5位/276ポイント
渡部三郎

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆金子裕之


(かねこ・ひろゆき)1956年8月4日生まれ
新潟県出身。
技術選では、88年3位、87年3位、88年11位、89年7位と、上位陣の常連。90年も7位。しかしデモ選では涙を飲みつけ、4度目の挑戦でようやく初認定を受けた。

トップをとった中斜面ウェーデルン
柔らかく、切り替えの早い膝が、この完成度を生む。雪面にスキーをはりつけ、前にはじき出す

F1ドライバーにたとえるなら
ナイジェル・マンセルか。
その飛ばし屋が、
安定した切れを身につけた

 急斜面ウェーデルン(通称急ヴェ)。それは技術選の種目のなかで、もっとも人気の高い種目であり、このイベントの歴史に、多くの伝説が作られてきた種目である。
藤本進、三枝兼径、佐藤正人といった名手は、この種目の歴史に輝かしい名を刻み、いま伝説のなかに生きている。
金子裕之も、その急ヴェの伝説に名を刻みつけるであろうひとりなのである。
84年、大鰐での第21回技術選で、金子は、凍りついた深いコブの急斜面を鮮烈に走り抜けて、種目トップに立った。急斜面ウェーデルンは、速さで闘う種目になったのである。
急ヴェを沸かす金子は、同時にまた、大きく失敗するというリスクも背負い込んだ、一発屋的性格の選手であった。その金子が、鋭い牙をひっこめた。そんな印象の第27回技術選であった。速いばかりでは勝てない方向に技術選が変わったとき、金子のスキーもまた、速さ、強さから、切れ、走り、そして丸いうまさへと変身したきたのである。
「ようやく金子のスキーセンスが、正当に評価される時代になった」
そうだれかがいった。やや遅すぎた、金子の成長であった。第27回の技術選は、彼がもっとも得意とするコブの急斜面が、平滑なバーンに変更され、見せ場がなくなっていた。しかし、得意種目といえなかった中斜面ウェーデルンで渡部三郎と並ぶトップ、ステップターンも佐藤譲、沢田敦、渡辺一樹と並ぶ3位、パラレルターンも7位と見事な成績で、総合7位となった。得意種目が入れ替わったような金子の変身である。

1991年 八方尾根 総合滑降 7位/281ポイント
金子裕之

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1988年 八方尾根 小回り急斜面不整地 8位/274ポイント
金子裕之

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社



第90回技術選 スキージャーナル誌1991年3月号より


◆大平成年


(おおだいら・なりとし)1959年1月15日生まれ
新潟県出身。
学生時代の競技経験はあるものの、おもに基礎スキー畑で成長した。平川仁彦氏が代表の八海山スキースクールに所属

ステップターン
この種目は、縦のラインで加速するタイプと、左右へ曲線でつなぐタイプに大別できる。この大平の技法は、その中間に位置している。

あの八海山の急斜面を
直滑降するという伝説の持ち主。
重厚でねばりのあるスキーは、
たとえるならば、重戦車か。

 八海山スキースクールの人気教師である大平成年は、どの種目でも上位につけ、けっしてとりこぼしをしない安定したスキーヤーだ。それだけに、ファンからみれば、第24回技術選の総合滑降でトップをとった、あの鮮烈なすべりの印象にこだわってしまうのである。トップをねらって、一発決めてほしい、といってみたくなる。
第26回技術選で6位になったとき、
「今年はこのへんがいいところですよ。来年はねらっていきます」と語ったのだから。
その27回技術選の成績は、総合8位。新鋭・森信之と僚友・金子裕之に、割り込まれてしまっている。そして、その成績を子細に検討してみると、2年間はほとんど変わっていないことに気づく。ステップターンは8位から7位へ。パラレルターンは9位から6位とわずかに上昇。中斜面ウェーデルンは4位から11位へ。急斜面ウェーデルンは7位から12位へ。総合滑降も7位から12位へ。という具合である。ゲレンデシュプルングだけが、18位から2位へと、大きく躍進しているが、この種目は、技術の変化進歩とは関係がない。
いってみれば、中堅どころの選手大平という評価は、こうした成績をみるかぎり、定着してしまうのではなかろうか。
平川仁彦コーチは、そんな大平の欲のなさに、イライラしているに違いない。八海山といういい環境にあって、その天分を伸ばしてきた大平だが、海外での経験を加えて、さらにその技を磨きあげ、より切れる、より走るスキーをみせてほしい。

1988年 八方尾根 総合滑降 1位/283ポイント
大平成年

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1988年 八方尾根 小回り急斜面不整地 3位/277ポイント
大平 成年

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆我満嘉治


(がまん・よしはる)1964年5月13日生まれ
北海道出身
87年、早稲田大学在学中に、学連から技術選にデビュー。急斜面ウェーデルンのパフォーマンスで、一躍人気者となる。


パラレルターン
フォールラインにまわりこんだスキーを踏みつけ、その反動を前方に開放して、スキーを外へ放り出す。その内側に体軸を傾けて、深い弧を描いている

明るくてとにかく派手。
そんなムードが変化し、
落ちついて、余裕のある
パフォーマンスを披露。

 我満嘉治という選手を語るとき、かならず引きあいに出されるのが、第24回、25回の技術選の急斜面ウェーデルンの鮮烈な印象である。とにかく、周囲の目をみはらせる速さで、圧倒的な迫力があった。
「感激しました。あんな速さというものはいままで見たことがなかった」 ある審判員がこう語ったほどである。
技術選が、速さ、強さの時代と呼ばれるようになった、その歴史の転回点で、我満は、渡部三郎、斉木隆、金子裕之らをしのぐスピードで、さらに高速化する技術選をリードしたのである。
第24回が16位、第25回が17位と、順位としてはそれほど上位でなかったのだが、人気のうえでは、我満は上位のスターたちに負けない選手となっていた。
なにかやってくれるんじゃないか、と期待され、その期待に応えてくれる選手であった。
第26回技術選では、我満は、ステップターン11位、パラレルターン4位、中斜面ウェーデルン2位、総合滑降4位、制限滑降5位、そして総合で8位と、安定した成績を収め、大平成年、金子裕之とほぼ一線に並ぶ成長をみせた。ゲレンデシュプルングの失敗さえなければ、2位か3位になっていたはずである。
そして、90年の第27回技術選。我満が変わった。最初の種目がスタートしたときに、それは明らかであった。それまで、小さなからだを、やや低く構え、どちらかというと膝を上体に抱え込むフォームだったのが、高い姿勢に変化していたのである。

・すべりのどこが変わったのか

 急斜面ウェーデルンの会場を囲んでいた大観衆が、我満がすべり終わると同時に、一斉に動きはじめた。まだ何人もの選手がスタート地点に残っているのに。
「我満さんを見に来ました」と語る女性ファンが多い。そして、
「今年はどんなことをやってくれるか期待しているんです」と男性ファンも興奮しているのである。
バーンの整備が完璧だったため、そうした観衆には、やや不満が残る演技ではあったが、そのフラットな斜面でみせたすべりは、それまでの我満とは違った、より豊かな内容の技法であった。高く保った上体は、無駄な力をまったく感じさせない余裕のある構えにみえた。かつてデコボコの急斜面のなかで、胸に膝頭がぶつかるまでたたみ込まれた下肢は、雪面からの抵抗を利用して軽くスキーをまわしていくといった感じに使われて、楽し気に斜面を舞い降りた、前年までの、激しい闘志がうかがえる格闘技的なムードは消えて、サラッと気楽に斜面を楽しんだ、というムードになっていたのである。ガムシャラな若さから、おとなのムードへの変質といえよう。
パラレルターンでも、同じような変化が読み取れる。どこまでもスキーの上に乗り込んでいくターンから、自分の重心、すなわち慣性質量の通る内側の軌道から、スキーをポーンと外へ放り出すようなターンへ。そしてそのスキーが、シャープな曲線を描いて、からだの下を交差していくというタイプのターンへの、変質なのである。

1989年 八方尾根 総合滑降 4位/284ポイント
我満嘉治

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1989年 八方尾根 小回り急斜面不整地 2位/287ポイント
我満嘉治

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆佐藤正人


(さとう・まさと)1952年10月13日生まれ。
山形県出身。
四半世紀にわたる日本の基礎スキーイベントの、ほぼ半分をトッププレイヤーとして歩みつづけてきた。

中斜面ウェーデルン
まさに「スキー教程」そのもの。
弧の大きさに合わせて、テールのズレ幅さえもコントロールする、正確な操作である。

デモのなかのデモ、
ミスター基礎スキーは、
強さ、速さの時代に
どのように対応したか。

 「ザ・デモンストレーター」と呼ばれた男は、藤本進と、この佐藤正人だけである。
77年、24歳で第14回デモ選に初出場、以来13年間、基礎選、技術選を戦ってきた。技術選のトップ4回、デモ認定8回。蔵王、セスト(イタリア)、バンフ(カナダ)と、インタースキー出場も3回あり、佐藤正人は、日本のスキー現代史の生き証人といえるのである。
佐藤正人のスキーは「日本スキー教程」に示された技法を正確に表現してみせるという使命感に支えられている、ともいえるだろう。
技術選が、強さ、速さの時代へと流れを変えたとき、彼はそれにどう対応したのだろうか。
「自分の限界スピードを確認してみる」
そこから、10年の輝かしいキャリアのうえに、さらなる挑戦を自らに課したのである。
30代半ばの佐藤正人にも、なお速さはあった。正確にコントロールされた美しいスキーの上に、堂々たる強さをアピールして、第22回基礎選、23回技術選の急斜面ウェーデルンを制し、22回は総合優勝、23回は渡部三郎に次ぐ2位の成績を収め、さらには、第26回技術選の制限滑降でトップをとったのである。
「俺にも、まだ速さがあった」 自らそう語った佐藤正人であった。
強さ、速さの時代の流れは、佐藤正人のスキーを、より高い次元に引き上げたわけである。佐藤正人の変貌は、そのまま日本のスキーの潮流となった。
いま、佐藤正人のスキーは、正確で、速く、強く、そしてさらに、美しい。

1988年 八方尾根 小回り急斜面不整地 1位/278ポイント
佐藤正人

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆出口沖彦


(でぐち・おきひこ)1958年8月25日生まれ。
福島県出身。
早稲田大学時代、インカレのスラロームを制し、ナショナルチームに在籍した経験もある。
童顔が醸しだす本人の雰囲気とは裏腹の、ダイナミックなすべりが持ち味。

ステップターン
得意種目である。丸い曲線軌道を仕上げ、雪面を切ってきた外スキーを踏み蹴って、次のターンに乗りこんでいく。からだ全体をつり上げるような大きな上下動である。

レーサーの技術を注目させた
インカレの覇者は、
絶妙のバランス感覚で、
新しいすべりをめざす。

 出口沖彦がインカレのスラローム優勝のキャリアをひっさげて、84年の第21回技術選(その当時は基礎選)にデビューした時、会場の大鰐スキー場の大斜面は、緊張した雰囲気に包まれていた。そこには、新しい時代がくる、という予感があった。
その第21回大会は、佐藤正人、吉田幸一、細野博、石井俊一らの、藤本門下生たち(かっての名デモ藤本進は、多くの選手を育てた)によって、トップが争われた大会であった。その、正確さ、美しさ、完成度の高さが争われている場で、出口は速さと切れを強烈にアピールし、「日本のスキーが変わる」という期待を抱かせたのである。
急斜面ウェーデルンで、かっ飛びパフォーマンスをみせた金子裕之とともに、出口は、速さの時代の先駆けとなった。
続く85年の第22回技術選で、佐藤正人、細野博、渡部三郎に続く4位につけた出口は、渡部三郎と並ぶ、速さの時代のニューリーダーとして認知されたのである。
しかし、その後の出口は、いまひとつ生彩を欠いているといわざるをえない。きわめて高い潜在能力を評価されながらも、総合成績でみると、9位、7位、10位、14位と、いま一歩トップにとどかない位置にいる。
技術的な要素を分析してみよう。からだ全体のバネを使ってスキーをひっぱって、まわしていく、そんな印象のスキーをする選手である。そして、踏みつけたスキーを、前に走らせるタイプといえる。
技術選の場を離れた、新雪の中では、じつに輝いてみえる。とくに、ショートリズムのターンでは、切れと走りを充分にみせてくれるのだが…・。

1995年 野沢温泉 総合滑降 15位/274ポイント
出口沖彦

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆石井俊一
◆吉田幸一


(よしだ・こういち)1954年5月14日生まれ。
北海道出身
デモ認定8回は、佐藤正人と並ぶ最古参。基礎スキーひと筋のキャリアのプレーヤーで、いまも日本のスキー技術論、スキー指導理論を構成する時は、なくてはならない

(いしい・しゅんいち)1955年12月31日
北海道出身
デモとして認定7回を数えるベテラン。女子のデモに「だれがデモのなかで、いちばんカッコいいか」と質問すると、全員が彼の名をあげるほどの人気者
(もり・のぶゆき)1963年10月9日生まれ
青森県出身
中学2年生でナショナルチーム入り、卒業後はアメリカ留学。ベイルの世界選手権まで世界を転戦、という華々しいキャリアの持ち主

正確で美しいスキー操作の
藤本門下の優等生たち。
あくなき探究心で
ふたりのスキーはさらなる高みへ。

 藤本軍団、藤本厩舎と呼ばれるグループがある。その顔ぶれは、佐藤正人、吉田幸一、細野博、石井俊一と、そうそうたるもの。彼らは、名デモンストレーターとうたわれた藤本進によって育てあげられた名手たちである。
彼らは、デモ選が、基礎選とデモ選に分離された80年の大会で、上位をほとんど独占するという圧倒的な力で、日本のスキー界をリードする集団となった。
その集団が、アルペン競技の世界からの参加者たちの主張に、揺れている。
スキー技術をわかりやすく表現してみせる能力の高さを競った、かつてのデモ選。そこで高い評価を得てきた彼らは、速さにとまどい、あらためて、新しい時代に合ったスキーを探る必要性がでてきた。
そんな時代の潮流になかで、吉田幸一と石井俊一のスキーには、いまでも注目すべきものがある。彼らは、ともに札幌で生まれ育ち、どちらも競技の世界には向かわずに、若いときから藤本進の門下に入った。
「基礎あがりのトッププレイヤー」と呼ばれるふたりのスキーは、長いデモンストレーターとしての経験のなかで磨きあげられたウマさを感じさせ、美しい。佐藤正人とともに吉田幸一、石井俊一のスキーには、若い選手たちが、学ぶべき多くのものがある。彼らのスキーは、完成度を高めながら、いまだに新鮮さを失っていない。
そして、いまなお我々を驚かすのは、ふたりのスキー技法に対するあくなき探究心と、常に先を読み、新しいものを吸収する姿勢なのである。そのたゆみなく前進するひたむきさこそ、これからデモンストレーターを目指す人達の指標となるはずである。


◆森信之

日々進化するレース技術。
その最新技法を身にまとった
元ワールドカップレーサーは
技術選でどう評価されたのか。

 第27回技術選は、森信之という新しい魅力を、日本のスキー界が獲得したことを喜ぶべき技術選であった。
過去の技術選においても、ナショナルチームからの参入者が話題になってきた。しかし、森の参入は、以前の斉木隆、沢田敦、佐藤譲らとは、やや違った期待がもたれていたのではないだろうか。中学生時代から、その突出したそのスキーセンスを評価されてナショナルチームに入り、高校をアメリカのスキーレーサー養成で注目されるストラット・マウンテンに留学、そのままワールドカップ転戦チームに編入。日本アルペン競技会のスーパーエリートとして歩んできた男である。そして、レーサー時代から、その完成された美しいフォームは、基礎スキーに向いていると評価された逸材であった。
しかし、地区予選、八方尾根での予選の段階では、彼が練ったと思われる戦略は、功を奏したとはみえなかった。
「そんな技術選向きのスキーなんて考えるな。自分のスキーをアピールすることこそ、いい評価を引き出す戦略なんだよ」 という先輩の意見を聞き、一気に決選への姿勢を決めた。
結果は、急斜面パラレルターンの2位を含め、全種目に高い評価を受け、ナショナルチームの先輩である沢田敦と並ぶ総合4位という、思いもかけない上位の成績を収めることができた。
アルペン競技のワールドカップに進行している技術革新の波のなかで、最先端の技法を身につけた彼のスキーに、日本のスキー界が大きな期待をかけるのは、当然といっていいだろう。

1991年 八方尾根 総合滑降 4位/282ポイント
森信之

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1996年 ルスツリゾート 小回り急斜面不整地 4位/283ポイント
森信之

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


◆山田誠司
◆三上慶孝


(やまだ・せいじ)1966年3月19日生まれ
長野県出身
インターハイ、インカレと競技スキーで活躍し、88年に技術選デビュー。トライアスロンにも夢中な、パワフルな肉体の持ち主

(みかみ・よしたか)1961年11月8日生まれ
青森県出身
基礎スキー転向の最初のシーズンの大けがを克服し、第27回技術選では20位。

上位をねらう新興勢力。
当然、レース経験あり、パワーあり、
といった面々なかで
いま、このふたりに注目!

 技術選、デモ選の舞台で、期待される新鋭には、だれがいるだろうか。森信之、我満嘉治は当然として、それに続くのはだれであろうか。第27回技術選で13位、デモ初認定の山田誠司。技術選19位、デモ認定2回目の山本広富。技術選22位の谷川和久・技術選25位の五藤伯文。そして、やや遅咲きながら、技術選20位、デモ初認定の三上慶孝、といった選手の名前が思い浮かぶ。
彼らは、きたる91年の第28回技術選に、どんなすべりをみせてくれるのだろうか。安定してみえる、佐藤譲、斉木隆、渡辺一樹、沢田敦の4強、それを追う我満嘉治、森信之、大平成年ら上位をどうつき崩していくか。速さの戦士として、この世界に参入してきた若手の技にも、注目しなければならないだろう。彼らのみせる技法は、まだ荒っぽい。けっして、美しいとか、完成度が高いと形容されるものではない。しかし、彼らのすべりには、見る者をひきつけるなにかがある。そのなにかを磨き上げたとき、それは個性として評価されるものになるはずである。 ここではそうした新鋭のなかから、ふたりのすべりを見てみよう。

  山田誠司は、渡辺一樹の後輩として大町高校スキー部に在籍、近畿大学に進んでアルペン競技の世界に身をおいた。そして学連から技術選に参加、第25回大会で26位、26回大会で19位、27回大会では13位と、一歩一歩順位を上げてきた。

  三上慶孝は、高校スキー界の名門東奥義塾から中大へ進んだアルペン競技会のエリート。86年の全日本選手権優勝を最後に基礎スキーに転向した。

1994年 野沢温泉 総合滑降 2位/283ポイント
山田誠司

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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