【連載41】シュテム・シュブングはいつ消えたのか Shiga Zin



ホッホグーグル ホテルアンゲラルアルムでのクリスマスディナーを楽しむ

◆シュテム・シュブングはいつ消えたのか

 前回のレポートの中で、私はオーストリアのスキー場でシュテム・シュブングを教える教師がまだいることに驚いた、と報告した。
しかし、考えて見ると、日本でのスキー指導には、シュテム・クリスチャニアは未だ生き続けている。その理由は日本のスキーヤーがバッジ検定に大きな関心を寄せ、バッジを手にすることをスキーを習う上での区切りと思い込んでいるということに起因するということに気がついた。そのバッジの色が何色かを自らのスキー技術の目安としているという習慣につき当たるのである。
しかし今、世界のスキーのフィールドからはその技術シュテム・シュブングは消滅してしまっているのである。


マチアス・ズダルスキー ターンの方法はプルークボーゲン
SIEG AUF WEISSEN PISTEN 1964 より

◆マチアス・ズダルスキーが開発、ハンネス・シュナイダーが昇華

  シュテム・シュブングの消滅はどういう経過で進行したのか。その謎に触れてみたい。
およそ100年前、オーストリアのマチアス・ズダルスキーが初めて山岳滑降の技術を創案した時、雪の上を滑る滑降、スキーで左右に方向転換する方法としてプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲンを開発した。その技術をアールベルクの天才、ハンネス・シュナイダーが、より速く、より鋭いシュテム・シュブングに昇華したのである。
その技術は、アーノルド・ファンクの手によって、映画“スキーの驚異”として世界中にひろめられ、世界中の人々の憧れの技術となっていった。日本でもその映画は1922年に公開されて、空前のスキーブームが起きた。
世界中、雪の降る国にはスキーをする人がいて、彼らがスキーをするという行為に直結していたのである。


映画 "スキーの驚異" のシーンから

◆日本でレルヒ少佐が教えたのはズダルスキーの提唱したスキー技術

  日本では、1911年オーストリアから派遣されたテオドール・フォン・レルヒ少佐が高田市の第13師団に就任し、そこで青年将校10人にスキーを教えたのが日本のスキーの最初とされているが、レルヒが教えたのはズダルスキーの提唱したスキー技術であり、当時まったく新しい技術であったオーストリアの将校ゲオルグ・ビリゲリーの山岳スキー術であった。
シュナイダーが ”スキーの驚異”を発表する約10年前にオーストリアスキーは日本に根付いていたのである。
直滑降、斜滑降、プルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン、シュテム・シュブングと段階的に技術を積上げて行くオーストリアの技法は、日本人の気風に合ったのか、日本の雪の上に広くひろがっていった。

◆シュテム・シュブングの進化

 1928年、イギリスの貴族、サー・アーノルド・ラン(世界最初のスキークラブ、カンダハークラブの創設者)とハンネス・シュナイダーが協力して、アールベルグ・カンダハースキー大会が開催された。それがアルペン競技の歴史の第一頁とされる。
そこで競われたのは、シュテム・シュブングの優劣であった。オーストリア選手の圧倒的な力が証明されて、オーストリアはスキー大国と呼ばれることになった。
そのスキー界にひとりの鬼才が現れた。インスブルック郊外のゼーフェルドの羊飼いアントン・ゼーロスである。彼はスラロームの名手として世界の注目を浴びていたが、シュテム・シュブングを進化させて、強い前傾と上体の順方向へのひねりによって、シュテム・シュブングより速く、しかも鋭いターンを生み出したのである。そのゼーロスの技法はテンポ・シュブングと名付けられ、パラレル・シュブングの基礎となった。


アールベルグ・カンダハーレースを創設した、
(左)サー・アーノルドラン、(右)ハンネス・シュナイダー
SIEG AUF WEISSEN PISTEN 1964 より

◆ゼーロスとエミール

 ゼーロスは自ら生み出した技法を武器に、当時あったあらゆる競技会に勝利を積上げていった。そのゼーロスのもとに世界中からアルペン競技を目指す若者たちが集まった。
その若者たちの中にフランス人、エミール・アレーがいたのである。
アレーは、ほぼ2シーズンでゼーロスの技法を習得し、アルペン競技に参入した。そのアレーの戦績は素晴らしい。特に彼の地元であるシャモニーの1937年の世界選手権大会では、滑降、スラロームの2種目に圧勝。コンビネーションにも金メダルを奪って世界一のアルペンレーサーとなっている。
それまで、フランス人は誰も勝ったことのないアルペン競技でのエミールの活躍で、フランス中が沸き返ったことは想像できる。エミール・アレーはフランス人の英雄となり、世界中の人々に「フランス人のスキーは」という話題をひろげていった。


(左)ルディーマット、(右)アントン・ゼーロス
SIEG AUF WEISSEN PISTEN 1964 より

◆オーストリア、フランスのスキー国の対立

 シャモニーの勝利の次の年1938年、エミール・アレーは、自らの技術を紹介する "スキーフランセ" を発刊した。美しい本であった。世界中のスキーファンがこの本に魅せられた。
アレーにスキー技法を伝授したアントン・ゼーロスは激怒した。「アレーは俺の技術を盗んだ。」ゼーロスは、そう主張してアレーの技術を批判した。オーストリア、フランスのスキー国の対立は、この時に始まっている。
「ローテーションか、逆ひねりか」全く相反する技術論争であった。何とその論争は2つの世界大戦の間も30年続いていたのである。

志賀Zinさん写真画像

志賀Zinさん写真画像
1938年に刊行された「フレンチメソッド」の中からエミール・アレーの表情と滑り
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より

◆戦勝国フランスの技術が優位となり、オーストリアに危機感

 1945年、ドイツ、日本が降伏して長い大戦の時代は終わり、雪の上にも平和が訪れた。人々は、雪を求めスキー場に繰り出した。戦勝国フランスの技術が優位に立った。オーストリア国内のスキー場にすらローテーション技法が蔓延していったのである。
その流れに危機感を抱いたオーストリアスキーの教師養成の責任者であった、ステファン・クルッケンハウザー教授は、各国のスキー専門家たちに呼びかけ、1951年にアールベルグ峠のすぐ近くのツールスで第1回のインタースキーの開催にこぎつげた。
ヨーロッパ中のスキー国の専門家たちが集まり、白熱した議論が交わされ、フランスかオーストリアか、ローテーションか逆ひねりかが争そわれた。
その3年前1948年にサンモリッツで開催されたオリンピックで、アンリ・オレー、ジャム・クテを送って金メダルを独占したフランスは、ツールスでの主導権を握ったかに見えた。しかし、ローテーション技法の欠点も多く提起されたのである。

◆“東洋の黒い猫”と呼ばれた千春青年

 その年の暮れに、戦後初めて参加が許された1952年のオスロオリンピックに出場する日本人選手8名の中から、水上久、猪谷千春の2名がアルペン種目に出場した。
猪谷は、アメリカの富豪、CV・スターさんの計らいで、サンアントンでオリンピック前のトレーニングを行っていた。
猪谷の技術にサンアントンの人々は目を見張った。千春選手の滑りは父親猪谷六合雄さんにたたき込まれたものだが、その技法は当時の世界の一流選手達より一歩先に行くものと認められたのである。“東洋の黒い猫”と呼ばれた千春青年(当時20歳)の噂を聞きつけ、クルッケンハウザー教授は彼の技術を克明にカメラに撮しとめていた。
私は、その秘蔵フィルムを約30年経ってから見せられた。その年イタリアのセクステンで開催された第12回インタースキーの直後である。クルッケンハウザーとホッピッヒラー2人の教授にはさまれて、サンクリストフのブンデスハイムの映写室で見た猪谷のフィルムは鮮烈であった。
クルッケンハウザー教授は、ストレートフラッシュを滑り抜ける猪谷の滑りが終わった時「ダス イスト バィンシュピール」(Das ist Beinspiel.)と低くつびやいて部屋を出ていった。
ホッピッヒラー教授は、その映写が終わった後、私に「日本人はかってあれ程見事な技術体系を完成し、あれ程優れた選手を世界に送っているのに、今回のインタースキーで何故あんな論文、練習法を発表したのか」という事を日本に伝えたいと思っているのだと語った。


コルチナ・ダンペッツオのオリンピックで
日本人初の2位 猪谷千春

◆猪谷の技術から発想された、パラレル・シュブング、ウェーデルン

 その猪谷の技術が徹底的に研究され、オーストリアは、新しい技術体系を構築した。1955年発表された「オーストリアスキー教程」である。その教程の中でもっとも重要視されたのはシュテム・シュブングであった。そして、その教程の後半の部分に猪谷の技術から発想された、パラレル・シュブング、ウェーデルンが掲載されている。
1954年オーストリア教程が発刊される一年前だが、スイスのダボスで第2回インタースキーが開催されている。その会議にオーストリアは新しく作られる教程の骨子を発表している。ターンの技法はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン、そしてシュテム・シュブング、さらにパラレル・シュブング、ウェーデルンと組み上げられていた。多くの国々から賞賛の声が上がった。

◆オーストリアの新しい教程で対決はさらに深まった

 しかし、フランスを初めいくつかの国から新しい技術に疑問の声が上がった。あんな曲芸的な技術は一般のスキーヤーには教えることはできない。というものであった。しかしオーストリアは次の年に新しい教程を発表した。オーストリア、フランスの対決はさらに深まったと見えた。
1955年フランスのヴァルディゼールで第3回のインタースキーが開催され、オーストリアの新教程を巡って激論が交わされた。フランスは、シュテム・シュブングはいかに洗練させてもパラレルには成らないとオーストリア教程を批判した。
この第3回のインタースキーに日本からフランスに派遣されていた片桐匡、稿本茂生の2名が参加している。

◆日本のスキー界はフランスの流れに乗っていた

 その1950年代、日本のスキー界はフランスの流れに乗っていた。1954年、フランススキーの総本山といえる、シャモニーのENSAの責任者ピエール・ギョー教授と1984年のサンモリッツ・オリンピックで滑降1位スラローム5位コンビネーション1位となったアンリ・オレーの2人が来日し、全国10ヶ所でフランススキー術を指導。オレーの流麗なローテーションに人々は強い感銘を受けた。一気にフランススキーブームが訪れたのである。フランススキーにはシュテムターンはなかった。私は赤倉でオレーの滑りを撮り、朝日新聞に送った。私のカメラマンとしての初仕事であった。


1958年バドガスタイン世界選手権大会の世界4強
(左上)トニー・ザイラー
(右上)猪谷千春
(左下)カール・モルティラー

(右下)ヨセフ・リーダー
SIEG AUF WEISSEN PISTEN 1964 より


◆トニー・ザイラーで日本のスキー界の流れは一気にオーストリアに傾く

 しかし、フランススキーの流れはそう長くは続かなかった。1956年イタリアのコルチナで第7回オリンピックが開催され、オーストリアのトニー・ザイラーがアルペン種目に三冠王になり、猪谷千春がスラロームで2位になって、オーストリア技法の優位が証明され、続く1957年春、三冠王ザイラーが突然日本に立ち寄り石打でその妙技を公開した。
日本のスキー界の流れは一気にオーストリアに傾いた。さらにその年「オーストリアスキー教程」の日本語版が福岡孝行さんによって発刊され、さらにオーストリアスキーへの関心が倍加していった。
1958年、アールベルグスキー学校の校長でオーストリア職業教師連盟会長のルディ・マットが来日し、7ヶ所のスキー場で講習会を開き、また同じ時期に朝日・NHKの主催によって、オーストリアのスキー教師フランツ・デリブルによるスキー学校が蔵王で開校している。日本はオーストリアスキー一辺倒の国になった。


日本に来たとニー・ザイラー
SIEG AUF WEISSEN PISTEN 1964 より


日本でスキー教室を開いたフランツ・デリブル 後は岩動洋治
SIEG AUF WEISSEN PISTEN 1964 より

◆日本に再びシュテム・シュブングが戻ってきた

 「去年までローテーションだったのに、逆ひねりかよ」といった声があちこちで聞かれた。日本に再びシュテム・シュブングが戻ってきた。デリブルのスキー学校はそれから毎年開かれ人気を高めていった。ルディ・マットも1960年に再び日本を訪れている。
1962年SAJは4人のスキー界の先達者をヨーロッパのスキー事情視察のために送っている。大熊勝朗、中沢清、西山実幾、柴田信一の4氏である。彼らは各国のスキー事情に触れ、残りの長い期間サンクリストフのブンデスハイムで送った。
その年開かれたイタリア、モンテボンドーネの第6回インタースキーにオーストリア側の客員として参加している。「スキーにはオーストリアスキーしか学ぶべきものはない」視察団の報告であった。
次の年1963年、オーストリアスキーの総本山と言うべきサンクリストフから既に国際スキー教育会議の議長になっていた、ステファン・クルッケンハウザー教授が、名デモンストレーター、フルトナー、ノイマイヤー、シュバルツェンバッハの3名を引きつれて来日、日本各地で研修会を開いた。当時クルッケンハウザー教授は「スキー界の法王」と呼ばれ、オーストリア教程は「スキーのバイブル」と呼ばれていた。

◆日本のスキーはオーストリア一色に

 日本のスキーは完璧にオーストリア一色に染められていた。そうしたムードの中でSAJは、4人の視察員の提言を受けて、次の1965年バドガスタイン(オーストリア)の第7回インタースキーに公式参加を決めた。
クルッケンハウザー教授たちの帰国後、蔵王その他でインタースキー派遣デモンストレーター選考会が開催された。
「どれだけ正確にオーストリアスキーを演じるか」が競われた。当然ク教授の講習会で助手を勤めた岸英三さんはじめ何人かの若者たちが上位を占めた。
次の年1964年SAJの公式行事として第1回デモンストレーター選考会が八方で行われた。今に続くデモ選の第一頁である。
5人の若者たちが選ばれた。平沢文雄、宮沢英雄、北沢宏明、丸山庄司、斉藤城樹である。

志賀Zinさん写真画像
1965年、第7回バドガスタイン・インタースキーに参加した日本のデモンストレーターチーム
右から、丸山庄司、斉藤城樹、北沢宏明、宮沢英雄、平沢文雄
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より

◆オーストリア技法は多くの批判にさらされた

 1965年バドガスタイン第7回インタースキーが開催された。参加は22ヶ国、世界中のスキー国の全てが参加したといえるだろう。
日本はこのインタースキーで5人の若者たちの演技に極めて高い評価を受けた。しかし、地元オーストリアの新聞は日本を賞賛しながらも「日本は古いオーストリア技法を正確にしかもより美しく見せた」と書いたのである。
このモンテボンドーネからガルミッシュに至る時代、オーストリア技法は多くの批判にさらされていた。「強い前傾、外向傾はスキー技術の進歩を阻害する」「シュテムからパラレルは生まれない」という論議であった。
海外からの批判にも増して、オーストリア国内からも鋭い反発があった。ウイーンのフリッツ・バームロック教授の論文、スキー教師カール・コラーの指導法などがそれである。
クルッケンハウザー教授はそれらの批判に応える解答を用意しなければならなくなった。

◆クルッケンハウザー教授が日本各地で行った試み

 1967年、クルッケンハウザー教授一行4人が再び日本を訪れて各地でSAJ指導員研修会を開いている。ク教授はこの研修会に全く新しい理論、新しい技術を持ち込んでいる。例を上げれば練習に従来よりかなり短いスキーを使うこと(ショートスキーの採用)、練習の過程では左右のスキーを開いて滑ること(ブライト)、連続小回りターンの練習には、プルークのフォームから連続してリズムをとって左右にスキーをまわす(ワウワウ・シュブング)などである。
これは画期的と言えるオーストリアの進化であった。ク教授はこの新しい指導理論を世界に発表する前に最も深くオーストリアスキーが浸透している国、日本で新たな理論への反応を試そうとしたのではなかろうか。
日本のスキー界の反応は、極めて安易なものであった。「オーストリアスキーの教程にいくつかのバリエーションが示された」と受けとったのである。

◆アスペン「合意のインタースキー」

 次の年1968年、アメリカアスペンで第8回インタースキーが開催された。私はこのインタースキーでオーストリアが何か大きな発表を行うであろうと予感していた。
スキー場の営業を終えた春のアスペンは和やいだムードにつつまれていた。その空気の中で長い間対立して来たオーストリアとフランスが手を結び合った。お互いに相手の理論を尊重し合い、相手の指導法を理解するといったムードになった。細部をここでは説明しないが、私はこのアスペンを「合意のインタースキー」と呼んでいる。
オーストリアは、雪上のデモンストレーションの前夜、クルッケンハウザー教授が演壇に立った。「かつて私達は世界の一流レーサーの技術を分析して指導理論を構築した。明日お見せするのは、何も教えない子供たちがどういう過程を経て、技術を身につけて行くかを慎重に長期間に亙って観察してきた。その結果、明朝お見せする指導理論に到達したのだ。」と語った。
次の日デモバーンの周りには全ての国の全ての人々が集まった。かわいい子供たちの滑りで始まったオーストリアのデモンストレーションは周りをかこむ大観衆から驚嘆の声が上がり、絶賛の拍手につつまれた。
プルーク・ボーゲンに始まりグルンド・シュブング(基礎回転)そしてウェーデルン、パラレルと進む新たなオーストリアの主張であった。


アスペンでの子供たち
「世界のスキー」志賀仁郎より

◆そしてシュテム・シュブングは消えた

 シュテム・シュブングは消えた。
私は深い感銘を受け、帰国してすぐ毎日新聞社の暗室にこもり、大きな大きなレポートを毎日グラフの特別号に掲載した。
“世界のスキーをひとつに”−アスペンからの報告書−がそれである。
だが日本のスキー界の反応は冷ややかなものだった。SAJの大熊勝朗さんは「オーストリアスキーは一言半句も変わらない」と語ったのである。日本が世界から大きくおくれている原因は、そこにある。

 


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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