【連載18】技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 Shiga Zin


※連載18は、連載16からの続きとなります。


SAJ80周年で志賀さんが表彰されました

 

◆私にとって観戦という立場に立ったはじめての技術選手権大会


7月10日横浜ランドマークにて

SA80周年パーティで 志賀さん(中央)

第42回技術選インタビューされる佐藤久哉

第42回技術選 山田広報委員長と志賀さん

スキージャーナル誌の志賀さんの連載
山田広報委員長

 3月9日から14日まで八方尾根の第42回スキー技術選手権大会を観戦させていただいた。何年か前までなら、「取材して来た」と語っていたのでだが、今回のスキー技術選手権大会は取材依頼が全くなくなって、私にとっては観戦という立場に立ったはじめての技術選手権大会であった。
第1日目の予選をウスバの斜面で見た。私の知らない選手たちが、滑ってくる。スタートリストを見ながら、その予選を見ていて、私は、いつの間にかひとりひとりの選手の滑りに評価点をだしていた。ところが、そうした観戦者の立場で見る滑りの評価と審判員が出すその評価にかなり大きな開きがあることに気づいた。
春の暖かい好天の中で柔らかいバーンは滑りにくいものとは思えるのだが、私の見る視点からは、いい滑りと評価できたのは、男女それぞれ数人程度、とてもこれが今の日本のスキー界の頂点を目指して精進している人間の滑りとは思われなかった。

◆若いスキーヤー達が、かっての外足内エッジ信仰にしばられている

  ほとんどの選手に230点240点台の低い評価が下され、250点を越えるのはほんのわずかな人数となっていた。斜面を見上げながら多くのSAJ幹部の人々と話をした。「いやーまだ新しいマテリアルを自分のものにしていない様ですね」 私の印象のひとつは、新しいスキーに慣れていない選手が多いということであった。「古い技術をまだ引きずっている選手が多いということも気になりますねー」 若いスキーヤー達が、かっての外足内エッジ信仰にしばられていることに私は驚き、そう話をついだ。
大会委員長の五十嶋さんに聞かれて、「これ程レベルの低い大会を見たのは初めてではないですか」とかなりきびしい評価を語ったのだが、ウスバの斜面で見たスキーヤーたちの技術は、私が見てきた42年間でもっとも低いと言い切れる程の内容だったのである。

◆外足内エッジ重視から、内足外エッジの時代への移行

 今、スキーは大きく変わっている。数年前までの常識は全く通用しない状況が、そこにあるのである。世界の頂点を争うワールドカップの世界でもスラロームに152センチというスキーが使われているのである。スキースポーツは、新しいマテリアルの出現によって大きく変化しているのである。日本でもスキージャーナル、スキーグラフィックといったスキー雑誌に掲載される、迫力ある写真を見れば、現在のスキー技法の要点は、判るはず。外足内エッジ重視から、内足外エッジの時代への移行、両スキーが常に雪面をとらえるスキーへの新しい時代が始まっているのである。
新しいスキー技法、新しいマテリアル、それに誰がどう対応しているか、それが争われる第42回技術選手権であったはず。

◆大会2日目(本選)、新しいスキーが見えた、新しい空気が流れていた

 10日、大会2日目、シードされた選手たちが出場してきた。同じウスバの斜面に全く新しいスキーが見えた。新しい空気が流れていた。
柏木が行き、宮下が滑り、佐藤久哉が滑った。それぞれに新しいマテリアルに対応したスキーを見せた。
柏木のスキーにわずかに不満が残った。コースの中央を、左右の幅をほとんど変えず、見事に滑り終えた。総合滑降という種目が求めているものとは違うと私には感じられた。得点は、高く276点と提示された。私は、「審査員が名前に負けているね」とつぶやいた。
宮下の滑りは、私の期待からはかなり離れたものとなった。どうしたのか、何かにおびえているのか、滑りが小さく見えた。勝たなければの思いは、宮下の身体を縮こませていたのだろう。274点と低い評価が出た。「何か、宮下らしい滑りではないね、何かにおびえている様に見えるよ」 私の感想に、隣に居た平川仁彦は「ちょっと靴に問題がある様ですよ」とボソット言った。用具が信頼できなければ思い切った滑りはできない。極めて単純な指摘であった。
佐藤久哉に注目していた。滑り出し、小回りターンをつなげ、中間で左に大きな深まわりをつなげ、ゴール前で再び小回りを連続させて停まった。快感度の高い楽しい滑りであった。いい点が出ると期待したが、提示された得点は275点、柏木より低い評価になった。
私はゴールの囲みから出て来た久哉をつかまえて、「良かったよ、今年は行けるよ」とはげました。この種目の1位は、能登恒の278点、2位が柏木、竹田の276点、佐藤は3点差で5位となった。
わずかに4点差の中に10人が入った。20位で8点差となっている。接線といえるはずだが。私には審判員の自信のなさが、その得点に現れていると見えた。

◆採点競技における審判の役割は、極めて重い

 採点競技における審判の役割は、極めて重い。ジャンプ競技における飛型審判員、体操競技、スケートのフィギヤー競技における審判員、そうした人達の経歴はすごい。信頼されるジャッジは、その世界でかって世界の頂点に立ったような、人達が選ばれているのである。かって札幌オリンピック前後、世界一のジャンパーと認められた笠谷選手が、その次の1976年インスブルックオリンピックの飛型審判を務めたことがある。
選手も観衆も、彼らの出す採点に納得していた。採点競技とは、そうした競技者、観衆ともに、納得できる審判員の採点が競技の成果を決めるポイントなのである。
審判員の名簿を確かめてみた。私の知らない名前が並んでいた。SAJの広報委員長、山田隆に聞いた。「どういう基準、どういう経緯で、この審判員が選ばれたのか」 SAJの広報委員長は、こう説明してくれた。

◆山田隆広報委員長より(当時)

 イグザミナーと呼ばれている現在の審判員は、教育本部が各都道府県連から募集しその推薦を受けた者達が、選考会を経て選ばれているのですが、志賀さんのおっしゃるような過去のトップデモだけではありません。なかにはSAJのトップデモであった方もおりますが、デモ未経験者もいます、又、過去にトップデモであり本人も希望していたが、所属団体より推薦を受けられず イグザ

ミナー選考会に参加出来なかった人もおります。 この様に日本中から広く集められ過去の経験にもかなりの差のあるグループですから、すぐに志賀さんのナットクの行く点数を全員が揃って出せるとも思えません。 しかし本人達のヤルキは充分ですし、SAJも強化に力を入れておりますので、近い将来志賀さんにもナットクしていただける ジャッジの出来る集団に成るものと期待しております。

◆20年前、技術選における審判員の役割を探る座談会の司会を

 私は、その時、約20年前にスキージャーナル社に依頼されて、スキー技術選手権大会における審判員の役割を探る、座談会を司会したことを思い出した。その古いバックナンバー1987年7月8月号を探し出すにはかなりの作業となった。(そのために、この連載の遅滞の理由とはならないのだが)
20年前、1980年から90年にかけての時代は、日本のスキーの激動期と言っていい。第7回バドガスタインインタースキーに派遣するデモンストレーターを選び出すとして始まったデモンストレーター選考会は、第8回アスペン、第9回ガルミッシュインタースキーへとつながり、日本のスキー教師の頂点を選び出す、とする、目標を得て、進化していた。それが、1970年に入り、デモンストレーター選考会とは何か、デモンストレーターとは日本のスキー界にどんな位置を占める存在なのかといった疑問、そして、デモンストレーターは優れたスキー教師ではなく、デモ屋だとする批判の中で、廃止か存続かが話し合われていた。
そうした論議が、東京で続けられている中、八方尾根、大鰐、大和ルスツの雪の上では、激しい流れがぶつかり合っていた。
日本のスキーとして完成に域にあった正確で美しい様式美のスキーが、小林平康、渡部三郎、斉木隆、出口沖彦、金子裕之ら、アルペン競技経験者たちの参入によってゆさぶられていたのである。
デモンストレーター選考会から、基礎スキー選手権大会、技術選手権大会という変化の中で、日本のスキーに速さ、切れという新しい、指標がもたらせられたのである。
私は、その時代、その座談会で、日本のスキーは、どうゆう方向に向かうのかをさぐろうと思った。

◆その当時の審判には絶対といえるほどの高い評価が与えられていた

 2号2ヶ月にわたる座談会のリードに私は次の様に書いた。 「ジャッジマンがどのような滑りをどの様に評価するか、それによって選手の滑りも、順位も違ったものになってくる。さらに言うならば、今後の日本のスキー技術が、どうゆう方向性を持っていくか、ということさえもジャッジマンの採点基準にかかっている。ここで技術選手権大会の審判を担当した方々に集まっていただいて、審判員のあり方、個人の考えをうかがっていく」と。
参加した審判員は次の4人であった。佐藤俊彦(東北ブロック技術員)、丸山隆文(甲信越ブロック技術員)、、山田隆(南関東専門委員)片山強(甲信越ブロック技術員)
これらの審判員を含む、その当時の審判には絶対といえるほどの高い評価が与えられ 「あの人達に見てもらって採点されるんだから自分の滑りに対する評価はあれでいい」と採点される側の選手たちは納得していたし、まわりをとりかこむ観衆たちも、「うん、なるほど」とほとんど疑問をさしはさむ様な姿勢を見せていない。審判員の評価がそうした高みにあったということが、その時代の技術選手権大会のムードを安定させていた。
と私は見ていた。

◆今、同じ座談会を頼まれても、全く同じことを私は語りかけるに違いない

 座談会の冒頭私は、その座談会の趣旨を次の様に語った。
「今日は、大きくふたつのテーマについてお話を伺いたいと思います。ひとつは、今回の技術選手権大会を審査する側として、どうゆう視点をもって、どうゆう審査をしたのかということ、もうひとつのテーマは技術選手権大会というものをどうとらえているのか、そして将来この技術選手権大会をさらにいいものにしていく為に、どんなプランがあるだろうか。そして皆さんがその中でどうゆう役割を果していこうとするかということです」と。
そして更に言葉をついで、「技術選手権大会の審査員というのは、技術選手権大会における最も厳しい仕事をやっているわけです。皆さんは大雑把に計算しても850人以上のスキーを見て採点しなければならない。これは、ものすごい体力と精神力が求められる仕事です。しかもつらいのは、審査する側のまわりを全ての人が監視しているという状況がある。誰のどんな滑りに審判員はどんな得点を出したか、技術選手権大会がいい競争になるかどうか、それが審判員の視点にかかっているわけで、合わせて日本のスキーをどうゆう方向に持っていくのか、それも全てみなさんの見識にかかっているわけです。
私のこのあいさつで座談会は始まったのだが、今、ここに20年程、前に私が語ったことは、今、同じような座談会を頼まれたとしても、これと全く同じことを私は語りかけるに違いないと確信できるのである。
それでは、技術選手権大会は、この20年、何の進歩もなかったのですが、と問われそうだが、私は改めて、20年前の4人の審判員との話し合いを読み返して、現在の技術選の問題点が見えて来た。と感じているのである。

◆それぞれの人のスキー哲学を聞いてみたい

 今回の第42回技術選大会の審判を担当してくれた人達が、20年前の先輩たちの持っていた、技術選手権大会に対する姿勢、スキー技術についての自らの信念、そして技術選の将来についての夢といったものを、どの程度、持ち合わせているのかを問い正してみたいと思うのである。
それは、それぞれの人がスキーにどのように深く関り合い、スキーをどのように愛しているのか、いってみれば、それぞれの人のスキー哲学を聞いてみたいと思うのである。
次号に、20年前の審判員たちが語ってくれた、それぞれの人のスキーについての哲学を紹介しようと思う。


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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