【連載25】これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか Shiga Zin


※連載25は、連載24からの続きとなります。


ホテルアンゲラルアルムにてくつろぐ志賀さん

◆エルンストの驚きを改めて私自身の意識として確認


43回は苗場スキー場で開催

ナイトーゲームもありました

女子優勝 嶺村聖佳、男子優勝 佐藤久哉

競技は、予選、本選、準決勝、決勝と

 「これ程の高いレベルにあるこれ程の数のスキーヤーを集められる国は他にあるだろうか」 私はホテル7階の与えられた部屋の窓から見下ろす斜面の風景を、そう感じて見入っていた。
かって、「300人のこれ程のレベルのスキーヤーの集まる大会を見たことはない」とオーストリアの名スキー教師キッツビューエルスキースクール校長のエルンスト・ヒンターセアーが語ったことがあるのだが、私は今回の第43回技術選手権大会が始まった時、そのエルンストの驚きを改めて私自身の意識として確認した。

◆日本のスキーはここから変わる

 競技が2日目、3日目と進行する中で私は、「日本のスキーは、ここから変わる」という波動を感じていた。
昨シーズン、私は、「新しい用具に対応し切れないスキーヤーが居る」と報告したのだが、今シーズンは、ほとんど全てのスキーヤーが、新しい用具に慣れ、新しい技術に対応して苗場の斜面に挑んでいた。
新しい時代は、新しい用具、新しい技術によって研かれていくのである。新しい用具を使いこなし、新しい技術に挑戦する。それが第43回技術選手権大会のテーマになっていた。
予選、準決勝、決勝と進む中で、新しい日本のスキー技法が見えて来た。コブの急斜面の中で、それは、際立って見えた。「しなやかさ」、それが、そうした斜面煮におけるスキー技法のポイントになった。
佐藤久哉のスキーは、しなやかで美しいものだった。そして女子5連勝の嶺村聖佳のスキーは、男にも増してたくましく、さらに流麗であった。2人のスキーに日本のスキーが到達した姿を見ることができた。

◆定点観測

  彼ら彼女らのスキーは、日本のスキーが、どの方向を向いて流れていくのかを示している。私は、技術選がデモ選と呼ばれていた当時から一回も欠かさず、この行事を見守って来た。
蔵王の残雪の上で行われた幻の第一回の岸英三さん、平沢文雄君、続く蔵王での第一回デモ選の平川、平沢2人の浦佐組のウェーデルン、第4回黒菱の悪雪を踏みくだいた佐藤パンチョのスキー、今でも鮮明にそのシーンを思い返すことができる。
今年43回の迎えたということで私は44年間、この行事を見守って来たことになる。何故、私がこの競技にのめりこんでいるのか、それは、ひと言で言えば、これが日本のスキーの定点観測だととらえているからなのである。一年に一度、その年、日本のスキーの頂点に立とうという全国のスキー教師たちが、技を競い合う、その行為の中に、日本のスキーの流れが見えると考えているのである。
私の技術選への44年間は、ほぼ同じ時期に平行して始まったヨーロッパにおけるスキーワールドカップ取材と重なり合う季節ではあったが、技術選の行われる期間は、ヨーロッパにおけるワールドカップシリーズが終る頃に重なっていて、ウェンゲンのレースを終えチューリッヒ空港に戻れば、日本のこのレースの開会に間に合うという好運なスケジュールになっていた。
ワールドカップのレースでも私の視点はスキーのレーシング技法の定点観測としての意味を持っていた。ワールドカップの主要レースは、毎年ほぼ同じ日に行われる。コースは、そのレースが創設された当時と全く変わっていない。
ジャン・クロード・キリー、カール・シュランツ、ベルンハルト・ルッシー、ローランド・コロンバン、そしてフランツ・クランマー、さらにクレージーカナックの連中、彼らは、滑降のレーシングテクニックを進化させて来た。その姿をヴァルディビール、ヴァルガルディナ、キッビューエル、ウェンゲンのコースわきで眺めて来た。滑降という競技は、彼らの滑りで高速化を続けて来た。また、スラローム技法は、マドンナ・ディ・カンピジオ、キッツビューエル、ウェンゲンのコースで進化を見せてきた、グスタボ・トエニ、インゲマール・ステンマルク、ピェロ・グロス、フィル・メーアといった名手がそれぞれのコースでどう滑りどう勝ったか、私はそれを40年間見守って来たのである。

◆日本には不思議な競技がある

  私はこの2・3年、体調を崩し、ワールドカップの現場に行くのをひかえているのだが、ヨーロッパでは、スキースポーツは、テレビがかならず完全中継している。私はヨーロッパの暖かいホテルの中で、そのテレビ中継を見守ることにしている。
私のワールドカップの定点観測は続いているのである。日本の スキーにおける定点観測点、技術選は残念ながら、テレビでの放映はない。私はどのような体調であろうと現場にいかなければならない。テレビ中継もなく、新聞に1行も扱われない競技である。これは、かなり不思議な出来事ではないだろうか。「日本のスキー界の最大の行事」、技術選は、そうした行事なのである。それは、この技術選に関心を寄せる世界のスキー先進国が、この技術選にどれほどの思いを寄せているか。
スキー先進国であるオーストリアでは1960年代から70年代にかけて、「日本には不思議な競技がある」と当時デモ選と呼ばれていた技術選に疑問を持っていた。「デモ選って何だ」、「スキーの上手い下手をタイム以外でどうして判定するのか」、そうした質問を私は多くのスキー関係者、ジャーナリストから受けた。
「スケートに速さだけを競うレースがあり、フィギアーという正確さ美しさを競う競技があると同じように、スキーにも、滑りの正確さ美しさを競う競技があってもいいじゃないか」 私は、そう答えて来た。
その状況が変わったのは、1971年第9回のインタースキーのころからと思われる。ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンでの第9回インタースキーで、日本から参加したデモンストレーター達の高い技術が評価され、それらのスキーヤー達が、日本にしかいないデモ選という関門をくぐって来た連中であるという事情が判り、にわかに各国の関心が日本にしかないデモ選とよばれる、その競技に集まっていた。
多くのスキー国の多くのスキー指導者たちが、日本にしかない競技会を見学に来るようになり、1990年からは外国人の参加が認められ、オーストリア、アメリカ、フランス、イタリアの名手たちが、その競技に参加する様になった。

◆サンクリストフのフランチェスカ・クラスニッツアー

  インタースキーの会長として世界のスキー指導者の頂点にあった、オーストリアのフランツ・ホッピヒラー教授は、私に、「日本のスキーヤー達の技術的な進歩はこの競技を抜きにしては考えられない。今の多くのサンクリストフの教師たちが、日本のこの競技に出たいと言っている。しかし、私は、彼らに君達が出場することになれば、日本の競技の方向をオーストリアに引っ張る危険がある。だから、前走を頼まれたりすることはいいけど正式に競技に参加することはするなと言ってある」と語った。
そして女子のレースに、フランチェスカ・クラスニッツアーの出場だけを認めたのである。フランチェスカはその初出場の年、日本人の誰にも抜かれることなく、トップを走り続けた。日本の女子では彼女に勝てる訳がない、誰もがそう納得していた。
私は、フランチェスカ・クラスニッツアーがサンクリストフのトップデモンストレーターであることを知っていた。サン・クリストフが、外国からの視察者を迎えた時、サンクリストフの有力なデモンストレーターがその時のオーストリアスキーの技法を演じてみせる。その集団のトップは常に彼女であったし、インタースキーでオーストリアスキーを演じる集団のトップは必ず彼女であった。フランチェスカは、もっとも正確に美しくオーストリアスキーを演じることのできるオーストリアースキーのエースだったのである。

1990年 八方尾根 急斜面ウェーデルン 1位/274ポイント
フランチェスカ・クラスニッツアー(オーストリア)

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆チェコの名花、マテア・スヴェート

  ルッギイー・シャラー、ベルント・グレーバーというオーストリアの名手に、デモンストレーター選考会への出場を認めず、女子のフランチェスカにだけ出場を認めた。という、ホッピヒラー教授の思いに、私は教授の日本のスキー界についての深い愛情と思慮深さを感じるのである。
フランチェスカの成功を見た日本のスキーメーカー、輸入業者はその会社が扱っている用具を使っている、使ってくれている女子選手をさがしていた。1991年、チェコの名花、マテア・スヴェートがロシニョールのスキーをはいて出場してきた。マテアは1980年代の後半からアルペン競技のスキーワールドカップに勝ち続けていた名手であり、日本女性と較べても小柄な可愛らしい少女であった。
世界のアルペンの女王が日本の雪に立ったのである。日本の女性が太刀打ちできる相手ではなかった。マテアは初出場の年から当然のように負け知らずの4連勝を達成している。

1992年 尾瀬岩鞍 ウェーデルン自由 1位/278ポイント
マテア・スヴェート(チェコ)

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆肯定的な考え方をヨーロッパのスキー先進国の間に広めた

 男子の競技には、最初の年1990年に、さして話題になるような外国人選手は参加していない。渡辺一樹、佐藤譲、斉木隆、渡部三郎らで上位が争われた八方で10位にC・ダビデ、11位KL・ファビオ、16位KT・メアノ、18位H・アゲラーと名前が上がっているが、その存在は日本のトップスキーヤー達の足元にも及ばない。という結果だったのである。「技術選を国際的な大会にしたい」と考えていたSAJの幹部たちは、その結果に胸をなで下ろしていたに違いない。
この1990年の外国選手の参加を認めるとするSAJの決定は、日本にしかない奇妙な競技会を世界注視の大会にするキッカケとなった。わずか15名の参加ながら、彼ら彼女らが故国に持ち帰った情報は、「スキー教師の研鑚の目標として、そうした競争はあってもいいのではないか」とする肯定的な考え方をヨーロッパのスキー先進国の間に広めたのである。
オーストリア、イタリアで、スキー教師のレースが企画され、フランスにあったシャンピオン・デ・モニターの中に採点種目が加えられた。それから約10年経って、今スキー教師の世界選手権大会が、開催されるようになったのである。

1991年 八方尾根 総合滑降 2位/284ポイント
渡辺 一樹

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

1993年 尾瀬岩鞍 総合滑降 1位/281ポイント
佐藤 譲

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆日本のスキー教師の技術レベルは、世界と較べても遜色のないものだ

 ところで、日本のスキー技術選手権の国際化は、どう進行しただろうか。1990年第27回全日本スキー技術選手権大会男子では、10位にC・ダビデ、11位KL・ファビオとフランス、イタリアの若い教師が入っているが、日本のアルペンレーサー上がりの佐藤譲、渡辺一樹、斉木隆、森信之、渡部三郎、金子裕之、大平成年、我満嘉治らにほとんど歯が立たないという状況にあった。
その状況は、1991年第28回でも変わらず、アメリカから初参加の、アメリカ滑降チームのエースだったマイク・ファーニーが10位に入るという結果になっている。日本人による上位は、変わらず渡辺一樹、佐藤譲、森信之、沢田敦となった。
SAJの教育本部幹部も胸をなで下ろしていたに違いない。「日本のスキー教師の技術レベルは、世界と較べても遜色のないものだ」 そうした安心感が日本のスキー界を覆っていた。

1989年 八方尾根 総合滑降 6位/283ポイント
斉木 隆

 

1992年 尾瀬岩鞍 総合滑降 2位/279ポイント
渡辺 三郎

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆とんでもないスーパースキーヤー達を、この日本の競争に投入してきた

  ところが、外国人参加が認められて3年目、驚くべき事態が発生した。日本のスキーマーケットが、この競争の結果に左右されていると気付いたヨーロッパのメーカーが、とんでもないスーパースキーヤー達を、この日本の競技に投入して来たのである。
イタリアのオズワルド・トッチ、ユーゴのロック・ペドロブッチである。 ワールドカップスラロームシーンの主役であった二人であり、日本のスキーヤーでは、海和、岡部クラスでも歯が立つはずのないスーパースキーヤーである。それは、まさに日本のスキー界の「黒船来航」であった。
1992年尾瀬岩鞍に会場を移した第29回技術選手権大会で、4位にオズワルド・トッチ、5位にロック・ペトロビッチが入賞し、アメリカのマイク・ファーニーも10位となった。
SAJの幹部たちは、この結果に満足したに違いない。しかし、日本のトップスキーヤー達は、強い危機感を感じていた。「このままでは、全日本スキー技術選手権は、出稼ぎ外国人のものになる」といった焦燥感が、彼らの中に生まれていた。

1994年 野沢温泉 大回り規制 1位/282ポイント
オズワルド・トッチ(イタリア)

 

1993年 尾瀬岩鞍 ウェーデルン自由 2位/286ポイント
ロック・ペドロビッチ(ユーゴ)

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆マイク・ファーニー

 日本のトップスキーヤー達の予想は的中した。1993年岩鞍での第30回では、1位にマイク・ファーニー、4位にオズワルド・トッチ、5位にロック・ペドロビッチとなり、日本のトップに渡辺一樹の2位、佐藤譲3位となった。
アメリカのアルペンチームの滑降のエースだったマイク・ファーニーは、生まれ故郷のヴェイルに帰ってスキー教師となり、当時日本のスキーメーカー西沢が、トレーニングとスキーテストを兼ねていた合宿に参加、日本にこうゆうスキーの競技会があることを知り、西沢スキーにすすめられて、第28回に西沢スキーをはいての出場10位になっている。
マイクはその時、日本で手に入れることのできる、技術選の記録ビデオを全て手に入れ持ち帰っている。彼は、その資料を徹底的に研究、「どうすれば勝てるか」「どう滑れば高得点が与えられるか」をさぐり出していた。
初出場から3年、マイク・ファーニーは日本にしかない奇妙なレース、技術選に勝利した。

1993年 尾瀬岩鞍 ウェーデルン自由 1位/288ポイント
マイク・ファーニー(アメリカ)

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆マーク・ガルシァ

 続く1994年第31回技術選手権大会は会場を野沢温泉に移して開催された。勝ったのはフランス人、マーク・ガルシァ。フランスチームのスラロームスペシャリストであったマークは、レースの引退後プロのサーキットを転戦、数多くの勝利を記録してプロサーキットの帝王と呼ばれた男である。前年93年に初参加13位になっているが、マイク・ファーニーの勝利を見、次は俺だとの意識はあったはず。
マーク・ガルシァも、気楽に参加した93年、13位という屈辱的な順位に驚き、この競技に勝つために、自分の滑り、そして上位に入った、マイク達の滑りの記録をとり寄せ、研究、次の94年をねらっていたのである。

1994年 野沢温泉 ウェーデルン急斜面不整地 2位/287ポイント
マーク・ガルシァ(フランス)


※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆オーストリア勢の参戦 ベルント・グレーバー

  世界のトップスキーヤーが本気で戦うレースとなった技術選にそれまで出場することを禁じていた、オーストリアのフランツ・ホッピヒラー教授は、サンクリストフの優等生たちに、出場の許可を与えた。教授は「出場するからには勝て」と、サンクリストフのトップスキーヤーをはげました。
1995年、野沢温泉の第32回技術選手権大会にベルント・グレーバーをトップとするサンクリストフの俊鋭たちが参加している。1位、ベルント・グレーバー、3位マーク・ガルシァ、6位オズワルド・トッチ。1995年技術選手権大会の上位に、オーストリア、アメリカ、フランス、イタリアとスキー先進国の名前が並んだ。
日本のトップスキーヤーは、2位に粟野利信、4位に渡辺一樹、5位我満嘉治となった。4,5年前、このままでは技術選は出稼ぎ外国人のものになる」と危惧した一樹、譲たちの予感は適中した。「このままでは俺たちはスターでいられない」 その焦燥感が痛いほどに伝わって来た。

1995年 野沢温泉 総合滑降 1位/282ポイント
ベルント・グレーバー(オーストリア)

※スキー研究シリーズ29「技術選快走録」1996年11月20日発行
スキージャーナル株式会社

◆国際技術選手権大会

 SAJ の幹部たちは、海外から参加するスーパースキーヤーをどうやって締め出すかに頭をしぼった。結論は、単純なものとなった。「次回96年技術選以降、外国人の参加は認めない。それに変わって96年から、海外選手が誰でも出場できる国際技術選手権大会を開催する。その技術選にはその年の全日本技術選手権大会の上位20位までに入った日本選手の出場を認める」  かなりなさけない決定だが、それは日本人スキーヤー、そして日本のマーケットに支持された。
1996年第一回国際技術選手権大会が野沢温泉で開催された。1位B・グレーバー、2位T・リンムル、3位E・ヒルッエッガー、4位M・グガニック、同点4位にR・ベルガー、6位M・ベルトルド、7位にP・ハスラー、M・ガルシァ、そして日本の我満が入った。
オーストリア、サンクリストフの精鋭たちの力が圧倒していた。日本のトップ渡辺一樹は12位、佐藤譲は13位となっている。日本にしかない奇妙な競技は日本の奇妙な採点方法でやってもヨーロッパのトップスキーヤーのスキーへの評価は変わらないと言うことが証明されていた。
しかし、この国際技術選は、この第一回だけで次の年からは開催されていない。技術選は、日本にだけある奇妙な競技、それは日本人だけでやる日本人だけの競技会として定着したのである。

◆技術選が世界に伝播され浸透

 ところが、この1995年、96年を契機にして、ヨーロッパで、スキー教師のための競技会が企画される様になった。オーストリア、イタリア、ドイツといった国が、プロのスキー教師たちの参加する、競技会を開催し、フランスでは長い間続いている、シャンピオンディモニターを改変したのである。
そしてその流れの中から、シーレーラーマイスターシャフト (Schilehrer Meisterschaft)(スキー教師世界選手権大会) が、今は恒例化しているのである。
今シーズンの初め、スウェーデンの凍雪の中で行われた、世界選手権はヨーロッパ各国のマスコミに取り上げられ、オーストリアではニーナが、勝ったと号外が出たのである。
日本で発想され日本で成長して来た技術選は1990年代に入って、世界のスキー指導者に注目され、世界のトップスキーヤー達の参加によってその意義が理解され、その競技が世界に伝播されて行ったのである。それが日本のスキー界が、外国人を締め出した時代と重なるというのも悲劇というにはあまりにも大きな日本のスキー界の損失であった。
世界各国に日本にしかなかったスキー教師の競技会が、それぞれの国のスキー事情を勘案して浸透している中で、日本の技術選は国際化という命題を忘れ、日本独自の競技会へ逆行させていった。それは、日本にだけある日本人だけの日本人の感性による評価を競う、日本のスキー競技会に戻ったのである。

◆国際化

 今、全てのスポーツが国際化をしている時代。野球、サッカー、どのスポーツんも外国人選手が活躍している。その流れの中で、日本の国技と呼ばれてきた相撲ですら、番付の上位に外国人が並んでいるのである。
日本でもっとも普及しているとさえいえる大衆スポーツ、スキー、それが、国際化という当たり前の流れを拒否して、世界から孤立している。
今、日本のスキーに関心を持っている国はない。「東洋の遠い国日本にもスキーを楽しむ人々がいる」という認識に逆もどりしてしまったのである。
1980年代から95年まで続いたヨーロッパのスキー先進国の「日本のスキー」についての関心は消滅した。
そのキッカケとなった二つの事件を私は忘れることができない。そのひとつは1983年イタリアの小さな村セストの魔の2日間、そしてその2回目は、1995年の技術選からの外国人の締め出しの暴挙である。
第一のセストの魔の2日間については何度か書いたのでここでは、詳しい報告はさけるが、日本のスキーが世界中から注目されていた、第12回のインタースキーで、発表された日本の論文、バリアブルスキーイングが全く理解されず、次の日のデモ会場で展開されたペダル・プッシングと呼ばれる指導法が世界のスキー関係者、全てに拒否された事件を指す。その日から日本のスキーへの関心は、ただただ、驚異的に拡大するスキーマーケットだけに注がれる様になったのである。そして、’95年を境に日本のスキーへの関心は完全に消滅した。
昨年から今年の夏にかけて、全日本スキー連盟創立80周年、東京都スキー連盟70周年の記念行事が盛大に行われた。そこに海外からの参加者はひとりも姿を見せず、お祝いのメッセージすら何もなかったのである。
世界で第3位のスキー人口を有する国の記念行事にどこの国も全く関心を寄せなかったという事実が、日本と世界の隔たりを示していたいだろうか。
私は、先日発表されたSAJの新しい執行部の中に、村里、平川といった国際感覚を持った若い人が主要な位置を占めたということに、この事態を解消する大きな期待を持っている。

◆マスコミの対応

 話が思わぬ方向にずれてしまったようだが、私にはもうひとつ技術選についての腑に落ちないことがある。それは、日本のスキー界の最大の行事といえる技術選を日本のマスコミは何故報じないのかという不思議である。
創設されてから43年、技術選は年毎に拡大し、年ごとにその内容を高めている。そして今では日本のスキー界における最大のイベントとなり、日本のスキーは、ここから発信される情報によって動いているのである。
何故日本の新聞はこの行事を無視するのか、私には理解できない。わずか5人か6人しかやる人の居ないスポーツにも紙面をさき、トリノオリンピックでは、リュージュ、カーリングといったスポーツに大きな紙面をさいた新聞が、日本の冬季スポーツの中で最大の行事を報じないというのは解せない。
私の行く横浜のスポーツクラブのオジサン仲間が「志賀さんが、大事なスキー大会があるから、5,6日クラブに来ないと言っていたから、次の日から新聞を丹念に見ていたけど、どこにもそんな記事はなかったですよ」と笑われた。
そう、日本の新聞は、日本スキー界の最大の競技会を報じていない。それは奇妙というより、怪奇な現象というべきではなかろうか。
43年も続く、日本スキー界の最大の行事、そして今、世界にひろがりつつある競技、世界選手権大会が行われ、ヨーロッパ各国では、大きな記事で扱われている競技、それが、その競技を発案し発展させて来た、その競技の祖国で全く一般に人々に知らされることがないと言うのは、何とも不可解なことなのである。何故そうした理不尽な事が起きているのか、次回以降に深索してみたい。

以上


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
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連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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