【連載09】デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ Shiga Zin


※連載09は、連載07からの続きとなります


実業之日本社で志賀さんが撮影された写真を選ぶ

◆佐藤正明はごく普通のスキーフリークだった


佐藤正明

佐藤正明  フリーステップターン

三枝兼径

三枝兼径 制限滑降

山田博幸

小林平康

 蔵王インタースキーの次の年1980年第16回デモンストレーター選考会が行われ、1位に佐藤正明がなった。ベテラン三枝は5位、山田博幸は6位、小林平康は7位、ようやくデモンストレーターの上位に変化が現れた。佐藤正明は続く81年の17回に1位、82年に2位を占めている。
日本でいちばんうまい米、コシヒカリの中でも飛びっきりうまいコシヒカリを生産するとうたわれた、北魚沼郡川口町(最近、新潟中越地震の震源地として有名)の農家の長男として生まれた正明は長岡市役所に勤めながら日曜と夜間にスキーをするごく普通のスキーフリークだった。
「デモ選というものがあると聞き、また近くの浦佐の人達が上位にいると知って、よし!! 俺もデモになってやろうと思ったんです」と語った正明は、信越地区予選を1位で通過、73年の第10回デモンストレーター選考会に出場したが残念ながらその力を認めてもらえず30位となった。その時から正明の胸に「いつか1位になってやる」の想いが燃えていた。
次の74年シーズンには仕事を辞め、浦佐の平沢文雄に弟子入りをし、浦佐のスキー教師をしながらデモンストレーターへの特訓を受けることになった。当時浦佐には、関健太郎、平川仁彦、山田博幸、小幡秀夫、五十嵐栄一といったそうそうたる顔ぶれがいたのである。
平沢文雄の指導によって、デモンストレーター選考会への準備を身につけた正明は、次の年74年の第11回に、何と一気に藤本につぐ2位となった。3位は丸山隆文、4位関健太郎の2人を押しのけたのである。驚異の新鋭であった。「あんな足の短いヤツが藤本、関の間に入るとは」、SAJの役員ですら信じられないことが起きたと驚嘆していた。
その驚異の2位から、75年12回5位、13回8位、14回再び2位、15回3位と常に上位を占めて、「いつかは1位に」の夢を追っていた。
丸山隆文が引退した1980年第16回こそ母親と妻に約束していた1位を手にとるチャンスだったはず。正明は幸せな男であった。

◆第16回の上位の3人は、デモをねらって修練を重ねて来た男たち

 この第16回デモンストレーター選考会の顔ぶれは大きく変わった。浦佐を主力とする新潟は1位、2位、6位、7位と上位を占め、デモンストレーター8名と、デモ王国を誇り八方を主力に戦った長野は4位、5位18位と3名を送り込んだだけの退潮であった。
この第16回の周辺に再び、デモンストレーター選考会とは何か、デモンストレーターとはSAJの中でどう位置づけられていいのかといった疑問や、メーカーの有力選手への勧誘、引き抜きといった噂がくすぶっていた。
好きなスキーを続けるために生活をかなり犠牲にしてきたスキー教師たちは多い。ましてデモンストレーターを目指すとなれば練習にさく時間はかなりものもになるはず、メーカーなどから提示される条件は彼らにとって魅力のあるものになって当然である。
すでにこの時代、メーカーの援助を受けていたスキーヤーは増えていた。メーカーから提供される、スキーができる環境は、彼らにとって魅力のあるものだったはず。メーカーの援助を受けるスキーヤーは増えていた。
デモンストレーター選考会の上位をねらっているスキーヤーにとって、メーカーが企画した合宿が開催日の前に行われ、本番の競技に使うと予想される斜面を使ってきびしい練習が行われていた。そうした風景を前に、デモンストレーターの先輩である八方のスキー教師たちは苦り切った表情を見せ、「彼らはデモ屋であって、スキー教師ではない」と語っていた。そして、「長野県連は、あゝしたデモ屋は造らない」と言葉をついだ。
前回1位の栄光をつかみ蔵王インタースキーのリーダーを務めた丸山隆文は、この16回デモンストレーター選考会に長野県チームのコーチとして会場に姿を見せた。丸山隆文は「私たちスキー教師にとってデモンストレーター選考会は自分の力を試す最高の場だったのです。私自身このデモンストレーター選考会に挑戦していた8年間はいつも、その時の日本のスキーを見極め、それをいかに自分の技術に取り入れるか、そしてそれをいかに正確に演じてみせるか、を心がけてきました。そして、それをスキー学校の指導にも役立ててきました。今、日本のスキーは、こうですよと一般のスキーヤーたちに伝えてきたのです。」と語り、「今、デモのためのデモとして、デモンストレーター選考会を戦っている人達はもっと日本の技術を高め広げるために仕事をして欲しいと思います」と言葉をついだ。
この第16回デモンストレーター選考会の上位を占めた3人は所属するクラブはあっても、一般のスキーヤーを教えると言う仕事はなく、デモンストレーターをねらって修練を重ねて来た男たちであった。

 

◆SAJは純粋な競技会としての全日本基礎スキー選手権大会の開催を決定

  O社の社員となって北海道の若いスキーヤーを集め、デモンストレーターのための特訓を課していた藤本進の指導する集団が注目を集めていた。デモンストレーター選考会は、そうした若者たちの戦いの場になっていた。こうしたデモンストレーター選考会の変質に対してSAJは、従来のデモンストレーター選考会の廃止と、純粋な競技会としての、全日本基礎スキー選手権大会という名称を与えた競技会を開催するという決定を行った。79年秋である。
1964年、次の年のバドガスタイン第7回インタースキーに派遣するデモンストレーターを選考する行事として始まった、デモンストレーター選考会は16年の歳月を積み上げる中で変質して行ったのである。その16年は、日本の近代スキー史の中で大きな意義を持った選考会となり、日本のスキー技術は、その16年の中で飛躍的に進歩してきたのである。
16回目最後のデモ選と言えたデモンストレーター選考会の1位は佐藤正明、2位相田芳男、3位山口正広、4位宮津久男、5位三枝兼径、6位山田博幸、7位小林平康、8位吉田幸一、9位工藤正照、10位佐藤正人となった。この中でスキー教師と言えるのは、4位宮津、5位三枝、6位山田だけとなった。
この第16回に上位を占めた3人は所属するスキークラブはあってもスキー教師としてシーズンを送るというスキーヤーではない。デモンストレーター選考会に向けてデモ選で高得点を得る滑りの練習に明け暮れているスキーヤー達なのである。かって名デモンストレーターといたわれた藤本進の組織したO社の合宿は札幌国際スキー場をベースとして研鑽を積み一気にその技術を高めデモンストレーター選考会の上位をねらっていた。
デモンストレーター選考会はそうした特異な環境の中で育て上げられたデモ選のためのデモンストレーターの競演の場になっていた。
デモンストレーター選考会の質的な変化に対してSAJは従来のデモンストレーター選考会の廃止と、純粋な競技会としての全日本基礎スキー選手権大会の開催という決定を下さい。
基礎スキー界の全日本選手権だとする菅秀文教育本部長の長年の主張が認められたと言えるだろう。

◆16年間のデモ選は、日本のスキーシーンを劇的に変化させてきた

 バドガスタインで開かれた第7回のインタースキーに参加した5人のデモンストレーターを含む、SAJの代表たちは、世界のスキーをこの目で見、日本のスキーを世界に伝えると言う責任感に燃えていた。日本人のスキーを世界の人々の前で演じてみせるデモンストレーターを日本中の若いスキー教師の中から選び出す選考会として発信したデモンストレーター選考会は、16年間の歴史の中で多くの実りを日本のスキー界にもたらし、日本のスキーシーンを劇的に変転させてきた。デモンストレーター選考会16年は日本のスキー技術の急速な上昇を生んだ16年であったし、またこの16年の間に日本のスキー界は将来に向けて日本のスキーをリードする多くのタレントを生み出してきた。

◆プルーク、横滑りなど低速種目が消えていた


藤本進

第1回基礎スキー選手権

吉田幸一

吉田幸一 ステップターン

佐藤正人

石井俊一

細野博

  1980年第17回デモンストレータ選考会と数えるはずだった17回は、第1回全日本基礎スキー技術選手権大会と呼ぶことになり、2年に一度となったデモンストレーター選考会は1981年に第17回デモンストレーター選考会と呼ぶことになった。
その第1回基礎スキー選手権大会は、1980年3月12日から北海道の大和ルスツで開かれた。その日までの長いシーズン、若者たちは何がどう変わるのか、どんな練習をしておくべきかに迷い続ける長い時間を過していたはず。ほとんど何の情報もないままその日が来た。だが迷いは競技開始と同時に消滅した。なぜなら、基礎スキー選手権大会は出場する選手も運営する役員も、それまでのデモンストレーター選考会と全く変わらない顔ぶれで、競技種目もほとんど同じ設定になっていたからである。
「何だ、ただ名称が変わっただけじゃないか」の思いが広がっていた。
この第1回基礎スキー選手権大会に指定された種目は、規定種目と呼ぶ、シュテムターン、ウェーデルン、ステップターン、応用種目として、パラレルターン、ウェーデルン、総合滑降の6種目、従来のデモンストレーター選考会にあった11種目からプルーク、横滑りなど低速種目が消えていた。高速種目で技術を評価する姿勢はそこに見えていた。しかしながら、もっとも競技的な種目と言えた制限滑降(スラローム)が消えていた。デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ、それは何をねらっていたのか、そこに何か不可解な事情が隠されていると、私は感じ取った。

◆藤本厩舎の獅子たちと新潟のベテラン勢との戦い

  この大和ルスツの第1回基礎スキー選手権大会は、かって名デモンストレーターとうたわれた藤本進が組織しだ藤本厩舎と呼ばれたグループの若い獅子たちのさっそうたる舞台となった。
前第16回のトップ佐藤正明をエースとする新潟勢は、佐藤、小林平康、山田博幸、相田芳男といったベテランをそろえ、長野県は宮津久男、太谷陽一らで若手の進出を阻止しようとこの大会にい臨んでいた。
だが、藤本門下の若者たちは 、先輩たちの顔にも名前にも臆することなく、自然に振るまい、軽快に舞ってみせた。第1日目の種目、規定シュテムターンでは、さすがに経験豊かなベテラン組みが上位を占め、1位佐藤正明、2位相田、3位山田と新潟県勢の独占といった形になったが、吉田幸一はそれにつぐ4位、細野博5位とぴったり追走、 もうひとつの種目、規定ウェーデルンでは若いバネは、1位に佐藤正人、2位吉田幸一、4位石井俊一。高柳知巳、6位工藤と、藤本門下の俊鋭たちが上位を占めた。
1日目を終えて、1位は佐藤正明550点、2位吉田幸一545点、3位佐藤正人542点となった。藤本がきたえた2人は、ベテラン佐藤正明を射程の中にとらえていた。
2日目は快晴、絶好のコンディションになったが追う若者たちののびのびとした演技が注目された。吉田は得意の応用パラレルで文句なしの最高点282点を上げて、2位の佐藤正明の275点に7点差をつけて第1日目の5点差を逆転して首位にたった。
最終日3月15日は、吉田がどこまで得点を伸ばすのか、そして藤本厩舎と呼ばれた藤本進がきたえあげた若者たちが何人上位に食い込むかが焦点となった。それは藤本門下生と、新潟のベテラン勢の対決と言っていい図式であった。

◆藤本一門の成績はすさまじい

  良く整地された急斜面での応用ウェーデルンで佐藤正人が安定感のある 大きな演技で277点でトップ、2位に相田、3位石井となり軽快に滑った吉田は7位となった。しかし、吉田は残る最終種目の応用総合滑降で5位に入り、この種目にトップを譲った佐藤正人を振り切った。吉田の6種目は4位、2位、1位、2位、7位、5位と前種目ムラなく得点を積み上げ総得点は1639点、追い上げた佐藤正人は10位、1位、3位、6位、1位、1位であったが、規定シュテムの10位が足を引っ張り1633点となりわずか6点差で2位となった。3位は相田の1630点、4位に佐藤正明1627点となった。
この大和ルスツで上げた藤本一門の成績はすさまじい。1位吉田、2位佐藤、5位石井、7位細野、8位工藤、10位高柳、渡部三郎、14位霧島敏明、17位出倉義克、紺野と上位20人の中の半数を占めているのである。
かつて名デモンストレーターと呼ばれた男の藤本進は、若者たちに夢を与え、若者たちをきびしくきたえ上げ、名コーチ、名伯楽とうたわれる地位をつかんだ。そしてその一門の優等生吉田はよき師に恵まれて、一気に頂点に駆け上がり、栄光のグループ藤本厩舎のチームリーダーとなった。

(つづく)


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
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連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

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