【連載10】「様式美」から「速い」スキーへ Shiga Zin
連載10は、連載09からの続きとなります。
横浜ランドマークタワー内での志賀さん |
◆吉田はちょっぴり目立ちたがりの高校生だった
吉田幸一 |
吉田幸一 |
藤本進 |
藤本進 |
第1回基礎スキー選の吉田幸一 |
吉田幸一 |
サインをする佐藤正人 |
さぶちゃんこと渡辺三郎 |
第1回基礎選 ステップターン 小林平康 |
第1回基礎選 ステップターン 小林平康 |
第1回基礎選 急斜面ウェーデルン小林平康 |
第1回基礎スキー選手権大会(後に第17回基礎スキー選手権大会と数えることになった)の勝者となった吉田幸一の軌道を追跡してみよう。
札幌生まれの札幌育ち、高校時代はまではただ遊びとしてスキーをしていたという。ちょっぴり目立ちたがり屋だった吉田は片足で滑ってみたり、ジャンプしてみたりと人目を引く高校生だった。高校3年の冬、幸一は1級のバッジを手中にした。得意であった。
その吉田少年はある日、テイネオリンピアスキー場で、偶然にもその当時日本一のスキーヤーと呼ばれていた藤本進を見ることになった。
高く空に舞い上がる藤本のゲレンデシュプングに吉田少年は度肝を抜かれた。「うわーすげー」あんなにうまくなければ雑誌になんか載らないんだ。そう吉田少年は納得していた。藤本の印象は鮮烈であった。
◆藤本厩舎 デモンストレーターになるための徹底したトレーニング
19歳の少年にとって神とも言える藤本に直接、声をかけられて吉田は、藤本の組織したデモンストレーター育成のための合宿に参加することになった。
のちに「藤本厩舎」と呼ばれる様になったその合宿は、デモンストレーターになるための徹底したトレーニングを積む合宿であった。藤本の教えるデモンストレーター選考会に勝つための技術は、その当時の日本のスキー技法を分析し、どんな小さなミスもゆるさないきびしいものであった。両ストックは常に平行に保たなければならない、リングは雪面から2センチ以上上げてはならないといった細かな指示が飛んでいた。
日本スキー教程のモデルでもあった藤本は、その自らの体験を若いスキーヤー達にたたき込んだ。きびしい指導によって吉田らの技術は日に日に進歩して行った。
吉田は、その合宿参加の成果をその年準指導員合格で実証していた。そして、デモンストレーターのための北海道スキー連盟の予選を4位という好成績で通過した。
はじめて、八方の斜面に挑んだ吉田の成績は55位、少年の心には深い挫折感があったはずだが、師の藤本の胸には、「この若者はきっと日本のトップに立つ」という確信があった。続く第15回(1978年)に14位、さらに次の16回には8位と、吉田は順位を上げ、「藤本のところの若者は、いいね」といったムードがSAJの内部に生まれていた。
吉田がその力を認められ8位となった第16回、藤本グループの成績は、3位に山口正広、8位吉田、9位工藤雅照、同点9位佐藤正人、14位細野博、17位石井俊一と上位に名を連ねて、デモの浦佐、八方と並ぶ勢力となっていた。
藤本の夢は、その成果には満足せず、吉田、佐藤、石井らによって、日本のトップを奪うという大きなものであった。
第17回デモンストレーター選考会は1980年藤本厩舎の大勝利を刻む大会となった。吉田幸一の1位、佐藤正人の2位、そして5位に石井俊一、7位に細野博、9位に工藤雅照、10位高柳知己、渡辺三郎、14位霜島敏明、17位出倉義克と上位の半数を占めるといえる成果を上げている。
◆蔵王で開かれるインタースキーに地元山形県からデモンストレーターを
吉田が1位となった第1回基礎スキー選手権大会で吉田より注目を集めた男がいる。山形県の佐藤正人である。前回の9位から一気に2位まで躍進した正人は、吉田ら北海道育ちとは違う山形県出身の若者である。
佐藤正人という名がスキー関係者の間に記憶されるようになったのは、1979年日本の蔵王で開催される第11回インタースキーのためのデモンストレーター選考会となった第15回デモンストレーターの制限滑降の時ではなかったろうか。「地元蔵王で開かれるインタースキーに地元山形県からデモンストレーターを出そう」との想いが山形県スキー連盟の人々に中に生まれていた。山形県連は若い指導員たちを集め特訓を行っていた。その強化指定選手の中に競技経験のある、渡辺三郎、佐藤正人の二人が居た。
八方尾根で開かれた第15回デモンストレーター選考会、地元八方のベテラン丸山隆文が栄光の座についた大会だが、その大会のハイライトとなった制限滑降に二人の若い山形県勢は、トップ小林平康につぐ同タイムで2位を分けたのである。
その制限滑降の好成績によって佐藤正人は22位となって30名出場のインタースキー代表の座を射止めたのである。
続く79年第16回デモンストレーター選考会で、佐藤正人は再び制限滑降に小林を追って2位となり、その結果、総合順位を9位まで上げ、デモンストレーターの中堅としての地位を築き上げた。
その第16回大会の認定の時正人は、「インタースキーへの参加や、天元台の雪不足で自分のスキーの練習が充分に出来なかったので、せいぜい10位以内なら上等と考えていたので、この2位はすごく嬉しい」と語っていた。
◆第1回基礎スキー選手権大会の初代タイトルは吉田幸一
このシーズンから、正人、三郎の二人は藤本の合宿に入っていた。そして次の年1980年、それまでのデモンストレーター選考会は廃止され、スキーの技法の質の高さ正確さ美しさそして速さを競う全日本基礎スキー選手権大会という純粋にスキーのうまさだけを競う競技会として開催されるはずであった。
しかし、大和ルスツの会場に進行した基礎スキー選手権大会は16回を重ねて日本のスキーの世界に定着したデモンストレーター選考会と、さして違わないと感じられる競技会となった。
第1回基礎スキー選手権大会の初代タイトルは吉田幸一になった。 かって名デモンストレーターとうたわれた藤本進がスキーメーカーのO社の支援を受けて後進の育成に乗り出して6年、その純粋培養と言える道場の中から抜け出した吉田であった。
第1日目のトップを快走していた吉田を追って佐藤は順調に得点を積み上げていた。そして最終日の2種目に吉田らをおさえてトップを奪い一気に総合2位に躍進していたのである。ベテランと呼ばれた、佐藤正明、小林平康、相田芳男らをしりぞけて1位、2位は、驚異の出来事であった。
◆サラブレッドにたとえ、その集団を藤本厩舎と呼ぶ
藤本への賛辞が会場周辺にうずまいていた。人々は藤本の指導者としての力量に驚嘆していたはずであった。そしていつか誰言うとなしに藤本の教えるスキーヤーをサラブレッドにたとえ、その集団は藤本厩舎と呼ぶようになった。
SAJスキー教程が示す技術を深く理解し正確に演じる。そこには、体の使い方、脚の動き、上体の向き、わずかな誤りも見逃さず、修整を求める調教師、藤本の指導は徹底していた。日本のスキーが理想とする完璧なデモンストレーターを造り上げる。
そして基礎スキー選手権に変わったこの大会の中にあっても、藤本の指導は変わることはなかった。わずかにいくつかのスピードを要求される種目に、より速いスキーを求めたのである。
基礎と分離して2年目毎に選出されるデモンストレーター20人の中に藤本門下の俊鋭たちが数多く選ばれている。吉田幸一(1,8,4,2,1,6位)、佐藤正人(2,2,1,1,2,8位)、石井俊一(5,12,2,9,8,13位)。渡辺三郎(10、17,8,3,4,5位)さらに18期のデモンストレーター以降に細野博、出倉義克らが加わって、デモンストレーターの過半数を藤本厩舎が支配する世界となっていた。
◆日本のスキーが様式美の世界に深く入り込んだ時代
正確で美しいスキー、それが日本のスキーだった時代は長い。1957年、1956年コルチナオリンピック三冠王トニーザイラーが突然日本の雪を滑って見せた時、石打に集まった日本人が感じとったものはスピードそしてターンの切れであった。しかし、同じころ、ルディ・マットの来日から始まったオーストリアスキーブームはフランツ・デリブルの朝日新聞・NHK共催の講習会、そして、オーストリアスキーの総本山、サン・クリストフ ブンデスハイム校長 スティファン・クルッケンハウザー教授一行の2度にわたる研修会と続いた。オーストリアスキーブームの中で、「トニー・ザイラーは競技のスキーだから速いのは当たり前、一般のスキーヤーのためのスキーは、安全確実なスキーでなければならず、ク教授の理論、技術を学び、正確で美しいスキーを目標とすべきである。」とする考え方が浸透していた。
ク教授の第一回目の来日の時に、インタースキーへの参加が決まり、そのインタースキーに参加する「日本のスキーを世界の人々に見てもらう」ためのデモンストレーターを選び出す選考会を起源とするデモンストレーター選考会が、「正確で美しいスキー」を目標としたのは当然であった。
デモンストレーター選考会が、「正確で美しいオーストリア流のスキー」を求め続けている間は、平沢文雄、藤本進といった自ら正確さ美しさを探求した指導者が、良き後輩をこの世界に送り込むことができたはずである。
吉田幸一、佐藤正人が頂点にあった頃、言いかえれば藤本厩舎がその勢力を誇っていた時代、それは日本のスキーが様式美の世界に深く入り込んだ時代であった。
◆アルペン競技経験者が果敢な挑戦をしかけて来た
「スピードこそ美しい」「速さは魅力だ」そう確信する何人かのアルペン競技経験者が果敢な挑戦をしかけて来た。秋田県生まれ中学、高校そして大学とアルペン競技ひと筋に日本のトップレーサーを目指し、精進を積んできた小林平康は、1976年第13回のデモンストレーター選考会に突然、初出場、そのスピードと切れのいいターンで周囲を驚かせ第13回の焦点となった。
急斜面ウェーデルンに三枝兼径、平川仁彦につぐ3位、総合滑降では、佐藤正明、丸山隆文の2人のベテランを抑えてトップ。さらに最終種目制限滑降(やや短か目にセットされたスラローム。2走1採用)では2位に入って丸山隆文、丸山健吉に何と2本とも4秒という大差をつけてトップを奪ったのである。
「スピードは美しい」と語る小林は、衝撃のデビューによって基礎スキーの世界に速さと鋭さを持ち込んだのである。
それまで10年を超える歴史を積み上げてきたデモンストレーター選考会の中にアルペンレーサーとして活躍してきた人々は数多い。第7回バドガスタインインタースキーのデモンストレーター丸山周司をはじめ、庄司昭藏、吉田智与志、丸山隆文という人々がそれだ。彼らは全てインタースキーの日本チームの柱として活躍してきた。
しかし、彼らは、トップレーサーとしての季節を終え、スキー教師を職業として選び、その延長上にデモンストレーター選考会に出場。自らのスキー指導者としての評価をデモンストレーター選考会出場という行為に求めていた。
デモンストレーター選考会出場以前に自らのスキーの鋭さをそぎ落とし、日本スキー教程の忠実な具現者としてデモンストレーター選考会のピステにたっていたのである。
◆小林平康の行為は、鮮烈なショックを日本のスキー界に与えた
そうした風潮の中で、自らのスキーの主張をそのままデモンストレーター選考会に持ち込んだ小林平康の行為は、鮮烈なショックを日本のスキー界に与えたのである。
小林は、速さと切れを武器にできる急斜面応用種目(総合滑降、急斜面ウェーデルン、ステップターン、制限滑降)で常にトップを争い、特に制限滑降では、負傷欠場した第14回を除き3回のレースに3秒から4秒の圧倒的な差をつけトップを占めている。
小林が初出場した第13回デモンストレーター選考会の勝者となったのは平川仁彦だが、その平川は小林のスキーについて、「彼のスピーディなしかもリラックスした体の動き、彼が作り出す切れのいいターン、そうしたスキーは私たちのスキーとはまったく次元の違うのだと思いました。彼のスキーを身近で見た時、デモンストレーターとしての私の時代は終わったと感じました。」
SAJがSAJの理想として来たスキーに極限まで接近を果たし、SAJスキー教程の秀れた具現者となった平川は、その様式美の中に浸り切った日本人のスキーの限界を小林の衝撃的な行為によって知らされたのである。平川の引退を決意させたのは小林のスピードであった。
◆速いものは美しい
小林はデビューの第13回から6年間デモンストレーター選考会を走り続け、総合順位では、第13回5位、14回欠場、15回8位、16回7位と常に上位を占め、日本のスキーの流れを変える存在として輝いていた。
その当時日本のアルペン競技の世界では、ターンでは外側内エッジに乗り切るのが鋭い切れのいいターンの原則という考え方が浸透していたのだが、小林はその技法を徹底的に追及していた。ターンの中期から後半にかけて小林は内スキーを雪面から離して滑っていた。それが、「カッコイイ」と若者たちに受けて、各地のゲレンデにそのフォームを真似る者がでたのである。それは巨人の王選手の一本足打法に通ずるものといえたろう。スポーツの世界に進行していた一軸理論の実証者、スキーにおける先駆者といえる存在だった。
小林平康の出現によって、日本の基礎スキー界に新しい流れが生まれていた。
「速いものは美しい」
(連載14へつづく)
連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]
連載「世界のアルペンレーサー」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]
※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。