【連載17】特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー Shiga Zin
※連載17は、独立編となります。
第42回全日本スキー技術選手権大会にて |
◆ホッピッヒラー教授から渡された驚くべき数値
1989年の夏私は、オーストリアの氷河のスキー場ヒンタートックスにフランツ・ホッピッヒラー教授に呼ばれて、その宿舎を訪ねた。教授は、「ZINこのデーターを見ろ」と一枚の紙を差し出した。それは、そのスキー場ヒンタートックスのリフト会社の乗客のデーターであった。氷河のスキー場に登る最初のリフトの乗客数が記録され、その乗客の持っている用具が数えられていた。
そこには驚くべき数値が出されていたのである。曜日によってその数は若干の変動があるのだが、スキーヤーの数よりボーダーの数のほうが多くなっていたのである。特に、日曜日に来る日帰りのお客の7割がボーダー、週平均しても6割が新しいスポーツ、スノーボードのファンだったのである。
教授は「これから、スノースポーツの世界が変わる。サンクリストフで教えているスキー教師たちにも、これからはスノーボードの扱いを教えなければならなくなるだろう」と。
サンクリストフのスキー教師養成コースの中にスノーボードの技術、スノーボーダーへの教育の単位が加えられた。
◆わずか10年で消滅した
「ZIN日本にもきっと近いうちにこうした事態が訪れるよ」教授はそう語っていた。だが、その日からわずかに10年程たった今、ヨーロッパのスキー場からボーダーの姿は消えた。わずか10年で何故スノーボードは消滅したのか、そして何故日本にまだスノーボーダーが居るのか、考え込まざるを得ない。
ヨーロッパでスノーボードが消えた、その理由をヨーロッパの何組かのスキーファミリーに聞いて見た。「この数年、スキー用具が進歩して、子供たちにとってもスキーの方が面白いことが判ったから、今の状況が生まれている」「テレビのコマーシャルなどで、ものすごいパフォーマンスをするプロのスノーボーダーを毎日見ていれば、自分たちのスキー場での惨めな姿は、とても人前に見せられるものではないと、うちの子供たちは考えている様だよ「」といった答えが返ってくる。スノーボードは限られたプロのボーダー達の見せる世界であり、子供たちが大人たちのスキーを滑るコースに座り込んで、じゃまをするスポーツではないと、子供達が考えるようになったのだという分析なのである。
私の泊まっているホテルアンゲレルアルムのスキー置き場の様子を紹介しよう。新しいスキーラックに新しいカービングスキーがずらっと並んでいる。その数は約200台、そして、その一角にスノーボードのラックが作られているが、そこにはわずか2,3台のボードが置かれている、そしてそのボードが持ち出され、使われた形跡はない。
ヨーロッパではスノーボードは、派手なシーンを見せるプロのスポーツとなり子供たちがやるスポーツとしては消滅してしまったのである。
◆日本にあった世界最大のマーケットはどこに消えたか?
さて、そのホッピッヒラー教授に呼ばれた時、もうひとつの驚くべき数字を見せられた。それは1980年の後半から1990年にかけての日本のスキー業界が買いつけた世界のスキーマーケットの数字である。
その当時、世界中で生産されるスキーは約200万台、その中からほぼ半分の100万台が日本のマーケットに送られているといのである。そしてイタリアの有名スキー靴メーカーN社の総生産量は55万足、そのうち38万足が日本に送られている。というのである。
教授は、「日本人はスキーを何に使っているのか」と笑っていた。私は、その問いに「日本ではスキーはスポーツではない、流行りもののファッションなのだ。若者たちはヨーロッパの有名メーカーのスキーを買い車の屋根に積み、車の後席にヘルメットを積んで走るというのがカッコイイと思っている。その為に、何台かのスキーを買い、スキーラックを買って町の中を走っている。」彼らはスキーをするためにそれが必要と考えているのではない。
流行り物だから有名ブランド、フランスのR社のスキーが売れた。
◆日本は極めて特異なスキー国であった
その1990年前後の東京神田の情景を思い返してみる。夏、スポーツ用品店の多いこの街には、若者があふれ、そのほとんどの肩に真新しいスキーが担がれていた。
また、スキー雑誌の発刊日にはJRに乗ると一両に必ず何人かが、その雑誌に読みふけり、そのそばに新しいスキーを立てた若者がいた。
あるスキー雑誌が、素人を対象に「ダウンヒル3連戦」なる企画を行っている。滑降という競技をスキーを始めて2,3年というヨチヨチ歩きの若者たちに開放したのである。
ヨーロッパでは滑降は極めて危険なスポーツであり、それに出場する選手は、特別なカリキュラムで育成されたスペシャリスト。言ってみればプロの職人なのである。彼らは金と名誉のために命をかけて戦っている。
ヨーロッパのスキーメーカーは、ダウンヒルスペシャリストのために勝てるスキー、速いスキーを作り、そのスキーを、彼らに金を払って、使ってもらっているのである。
私は、そうした滑降用のスキーに値札がついて売られている国を知らない。日本では、大学の2年生3年生の女の子達が、210センチ、215センチの滑降用のスキーを買い、野沢のコースに、さくらちゃん「ガンバー」と黄色い声に送られて出て行くのである。日本にしかない奇妙な風景といっていい。
滑降というプロの世界、危険な世界を遊びにしてしまった国。きたえ抜かれたプロだけが、金をもらって履く滑降用のスキーを売り物にしてしまった国。日本は極めて特異なスキー国であった。
◆1952年から20年間で100倍、80年には1000倍、90年には推定38万台
100万台のスキーが売れ、38万足のスキー靴が店頭にならぶ、それはあまりにも異常な光景だったはず。
ヒンタートックスでホッピッヒラー教授に日本のスキー用具輸入量の異常さを教えられた同じ年、私はフランスのメーカーR社に呼ばれた。本社の首脳たちは私に、「もう一段、多く日本にわが社のスキーを売りたいのだが、協力してもらえないか」という話であった。
「今、いったい何台のスキーを日本に送っているのか」私の質問に答えて、「今年の目標は22万台と日本側と話を進めている。しかし我々はその数をもう少し増やしたいと思っているのだ」と語った。私は、その数にも驚いたが彼らの思惑は極めて危険だと感じていた。
R社でかなり精密なデーターを見せられた、ほぼ50年間の日本人が買ったR社のスキー台数であった。
正規の輸入用品としてスキーが買われたのは1952年、オスロオリンピックの年からと言う。R社のスキーが300台輸入されている。銀座の山とスキーの専門店、海野治良さんの好日山荘が中心になってフランスのスキーが初めて日本人の目に触れ、手に渡った。その評判は極めて高く、スキーファンは、金を貯めてその名器を手に入れた。私も一台買ったが、それは10万円近い高価なものであった。
1960年3500台、そして1970年から輸入商社三井物産が扱う様になって2万台と一気に拡大した。20年間で100倍になったのである。1972年札幌オリンピックの年に2万5千台、74年に5万台と倍々に増え続け、1980年には20万台となった。そしてこの前後から併行輸入業者が手をつけて輸入の正確な数値は判らなくなった。1985年には推定22万台、そしてホッピッヒラー教授が私にデーターを示した1989年、90年には推定38万台が日本のマーケットに出たと思われる。明らかに過剰であった。
◆「私をスキーに連れてって」
日本の若者たちは、日本経済の好況にうかれ、「私をスキーに連れてって」といった映画にあおられて、スキーを買いカッコイイ外国のスキー靴に足を入れていた。
R社の人々は、そうした浮かれたブームの状況を、読み誤っていたのである。
「日本の若者たちは、皆んなが持っているから自分も持ちたい。と思ってブランド品を買いあさる。それが今のR社の状況だと思う。だけどその時が過ぎると誰でも持っている物をダサイと感じる時が来ると一気にブームは消えてしまうよ。あなたたちの狙いは、その危険なところにさしかかっていると思うよ」と危ない商売を、思い止らす様に語った。
しかし、R社は、正規の輸出先がそれ以上に応じなかったため、併行輸入業者にも売ったのである。結果は無残なものとなった。
日本のマーケットに大きな変化が起き1991年には突然のスキー不況という状況が生まれR社のスキーは大量に売れ残りを出した。R社ばかりか、ヨーロッパ出のスキー用品メーカーの全てがその被害に遭っているのである。
私は横浜市内に住んでいるのだが、近くの桜木町駅前のOスポーツ店が閉店し、小さな卓球用具店になった。そして驚くべきは、みなとみらい地区の中心にあるクイーンズスクエアーにあるスポーツ専門店、Mスポーツに、スキー関連の用品が何もないと言うことだ。店員に聞いて見た「スキー用品は扱ってないのですか」と。するとその店員は、お前は馬鹿かといった顔で「はい、扱っておりません」と答えた。スノーボード、スノーボード関連の商品だけが売られているのである。
横浜在住のスキーファンは、鶴見のIスポーツに行かなければスキーを手にすることは出来ない。
◆雪の世界の未成熟さを知らされた
そして、一ヶ月ほど前、あるTV局がスキー場におけるスノーボーダーの実態を放映していた。コースの途中に坐り込むボーダー、コースを外れた滑走禁止の部分に入り込むボーダー、それはこのスポーツが日本ではまだルールもマナーも出来ていない事を伝えていた。ヨーロッパでスノーボーダーが消えた背景が何だったのか、私はその画面を見ながら背筋のさむいものを感じていた。雪の世界の未成熟さを知らされたのである。
第42回全日本スキー技術選が行われていた八方尾根では競技用にしきられた斜面の外側はボーダーの世界であった。そこには15年前のヒンタートックスの風景が再現されていた。
ヨーロッパで10年で消えたスノーボードは、日本で、これから何年続くか、私は呆然と見上げていた。日本のボーダーの行儀の悪さ、傍若無人の振るまいは、ヨーロッパのあの当時のヒンタートックスの様をはるかに上回っている。日本のスノースポーツはどんな方向に流れていくのだろうか。
連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。