【連載51】フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ Shiga Zin



横浜みなとみらいの寿司屋さんで  (2007年8月日撮影 上田)

◆ジャン・ノエル・オージェ、パトリック・リュッセル、アラン・ペンツ、フランススキーのスラローム陣にひとり立ち向かったグスタボ・トエニ。


グスタボ・トエニ

◆開催地はイタリアのバル・ガルデナ

  1970年のアルペン競技の世界選手権大会の開催地はイタリアのバル・ガルデナ(Val gardena)となっていた。私は、そこがどこかをいくつかのイタリアの地図を開いて探していた。どの地図にもその地名はなかった。その当時日本の代表選手として、通年ヨーロッパに居た大杖正彦君にたすねた。彼は「僕も知らないんです。何でもコルチナの裏側にあると聞いています。」と答えてくれた。
私たちは、クリスマス、正月を過ごしたオーストリアのサールフェルデンをポンコツのワーゲンで出発した。とにかくイタリアに行って探してみようと、ザルツブルグ、インスブルックを通って、ブレンナー峠を越えてイタリアに入った。アウトストラーダー(高速道路)を走り、イタリアのいちばん北の町ボルザーノを過ぎ、コルチナに通じる道に入った。しかし、どこまで走ってもバルガルデナの地名は出てこない。いつの間にか道は山岳道路に入っていた。
その道の最初の村、オルティセイセルバに入ったところで、左側の電柱に世界選手権大会プレスセンターは左と書いた画用紙を発見した。それに従って更に奥に行くと村の小学校に突き当たった。そこがプレスセンターであった。人々は皆、親切であった。プレスカードの発給もスムースに済んで、私たちはこの谷のいちばん奥の村、サンタ・クリスチーナの小さなペンションに納まった。村の人々ははじめて見る日本人を珍しそうにながめていた。ヤーパン、ヤーパン、ジャポーネといったささやきが聞こえた。この地方は、かつてオーストリア領であって、第2次大戦のあと、イタリアに割譲された歴史を持つ所。大人達はほとんどがドイツ語を話し子供たちはイタリア語をしゃべる様に教育されていた。


凍結したピステがふるえるほどの大歓声を背にした
イタリアの星トエニはスタートした

◆大歓声がトエニを包み込んで斜面を降りて来る

 レースは最初の種目、男子スラロームから始まった。コースの周りは信じられない数の人々に囲まれていた。”グスタボ、グスタボ”とイタリアに突然出現した新しいスターへの声援一色であった。コースのまわりは山鳴りの様な声に包まれていた。
堅いアイスバーンのコースで熱い戦いが始まった。フランススラロームのエース達、アラン・ペンツ、パトリック・リュッセル、ジャン・ノエル・オージェが1位から3位までを占め、第1シードの最終走者15番のグスタボ・トエニがスタートした。ゴーゴーたる大歓声がコースを包み込んだ。私は40年を越えてアルペン競技を追っているのだが、この時の声援ほどすさまじい声を聞いたことはない。
大歓声がトエニを包み込んで斜面を降りて来る。その声が一瞬悲鳴となった。コース中間の緩斜面から急斜面に移るカンテの上でトエニの体が大きく跳ね上げられたのである。
その危機をかわして、ゴールを目指すトエニに、再び大声援が戻って来た。ゴールした時、トエニのタイムは51秒39、3位、フランスの3人の中に割り込んだ。その後32番スタートのアメリカの新鋭スティーブ・ラスロップがいいタイムを出して3位に躍進した。
1本目を終えて、1位ペンツ、2位リュッセル、3位ラスロップ、4位トエニ、5位オージェとなった。トップのペンツの50秒34から5位オージェのタイムまでわずか1秒50と接近したものとなった。


中間の斜面の切り換えるあたりの深まわりでトエニは一瞬 空中に高く放り上げられた


1本目アクロバティックな技法で大差でラップをとった
アラン・ペンツ


1本目冷静に計算されたスキーで
トップとの差を1秒5とおさえた
J・N・オージェ


1本目に前衛的な技法を見せて
2番目のタイムを出した
パトリック・リュッセル



トエニが登って来た。緊張のためか、その顔色は蒼白であった

 その日の午後2本目が行われることになっていて、1時からインスペクションが始まった。ペンツ、リュッセルの2人は勝利を確信していたはずで、陽気にコースを登って行った。続いてトエニが登って来た。緊張のためか、その顔色は蒼白であった。それでも、トエニ、トエニという絶叫の中を一歩一歩確かめるように慎重に登っていった。その一群のあと、オージェが誰よりも時間をかけてインスペクションを消化していた。後半の急斜面の途中で立ち止まり、ジーッとコースを見つめ、そしてうつむいてコースを頭の中に入れる様に静かに立っていた。誰も周りに近づけない鬼気迫るものがあった。
私は2本目のジャン・ノエル・オージェの大逆転を予感していた。2本目、その当時のルールでは第1シードの15人は、15番からスタートし、1番まで滑り、それ以下の選手はその後タイム順にスタートすることになっていた。
フランスの三羽烏が栄光を独占するか、アメリカから初めてのメダリストが誕生するか、そして地元イタリアの新しい星グスタボ・トエニが逆転するか、興味はその3点にあった。トエニが勝利すれば、1966年ポルティヨ(チリ)でのカロル・セノーナ以来の勝利となる。大観衆は、その奇蹟を期待し気狂いじみた声援を送る。
トエニのスキーは目の前の栄光にすくんだか、あるいはあまりにも重い期待に立ちすくんだか、その滑りは慎重であった。それは追う立場に立った男の攻めのスキーではなかった。タイムは48秒84。フランス勢の追撃を可能とするタイムであった。続いてスタートした11番ジャン・ノエル・オージェにあっさり抜かれて、イタリアの夢は消えた。


2本目のはじまる前コースを下見する
トエニ。その顔は緊張のためか
青ざめている


1秒5の差でトップを追うオージェは
2本目の下見にじっくりと時間をかけて
作戦をねる



2本目オージェはペンツを追って
激しい闘志を見せ、会心のスラローム
逆転優勝をつかんだ


2本目リュッセルはややオーバーペース
で緩斜面の深回りにタイムロスして
2位となる

◆勝利への方程式

 このレースの結果は、果敢に攻めたオージェのものとなり、2位リュッセル、3位はアメリカのビル・キッド、4位トエニとなった。イタリアの新しい英雄トエニの自らの胸に輝くはずの金メダルは、あまりに大きい周囲の期待に沈み、夢を果たすことは出来なかった。しかし、トエニはこの苦い敗戦の中から勝利への確かな方程式をつかみとった。「攻めなければ勝つことはできない」ということだったのである。
バル・ガルデナ世界選手権大会以来トエニのレースは、攻めに徹するものとなった。キッツビューエル、アデルボーゲン、ウェンゲンと続くワールドカップに勝利を積み上げて、1970年71年のワールドカップに2種目だけで総合優勝をつかみとったのである。
グスタボ・トエニがデビューした1970年シーズン、そしてトエニが勝てなかったバル・ガルデナ。それは、アルペン競技会が全く新しい時代に入った年であったといっていい。


勝利者の顔ははれやか。そして観衆の視線もやわらかだ

 

※掲載している写真は、「アルペン競技 世界のトップレーサーのテクニック志賀仁郎」(ベースボールマガジン社)に掲載されたものを使用しています。


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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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