【連載05】ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質



横浜ランドマーク内のスターバックス前で左から 市野さん、夫人、志賀さん、山田さん

◆インタースキーは大きな岐路にあった


市野さん、志賀さん、山田さん

市野さんから最新技術動向の説明も

志賀JINさん

山田さんと志賀さん

藤本進

平川仁彦(雪のロマンス)

関健太郎

丸山隆文

小林平康
 

 1975年1月第10回インタースキーが当時まだ共産圏と呼ばれソ連の強い影響を受けていた、チェコスロバキアのビソケタトリで開かれた。極めて地味なインタースキーとなって、会議のテーマもはっきりせず、デモンストレーション会場のデモンストレーションも技術テーマを絞り込めない国ばかりとなった。
インタースキーは大きな岐路にあった。そのタトリで次のインタースキーが日本の蔵王に決まった。
日本にだけまだあるスキーブーム、そしてスキー用具のマーケットの拡大につぐ拡大、その秘密が解き明かされる。といった期待が日本に向けられていたと考えられる。

 

◆デモンストレーター選考会も大きな転機を迎えていた

 この第10回インタースキーには、デモンストレーター12名を含む、代表団を送ったが12名のデモンストレーターは、前年の第11回デモンストレーター選考会の成績順に選ばれ、藤本、平川、関、のベテラン組に佐藤正明、山田博幸らの新しい顔があった。
そのインタースキー帰国組を向かえて第12回デモンストレーター選考会が前回に続いて苗場で行われた。
参加者217名(うち女子2名)と巨大化したイベントだが、その周囲は、数年前に較べ極めて冷ややかなものとなった。
「八方と苗場では歴史が違うよ」と長野県の役員が語っていたが。
スキー技術に目の色を変えるスキーヤーの多い八方と、スキーをナンパの手段といった若者たちとでは、デモンストレーター選考会を囲むムードは変わっていい。
デモンストレーター選考会廃止が論議された前回、そしてデモンストレーター選考会への熱が冷え切ったこの第12回、デモンストレーター選考会は、インタースキーと同様、大きな転機を迎えていた。

◆審判員が公表され採点は5審3採の公開

 この大会から、審判員が公表され採点は5審3採の公開となった。デモンストレーター選考会に新しい時代が来ていた。
予選通過者60人の内訳は、新潟県22名、長野県12名、北海道8名、東京都6名、以下群馬県5名、山形県3名、神奈川2名となって、この行事における、浦佐、八方の対立の図式が読み取れる。
本選は2日間に分かれて行われ、1日目は緩斜面種目、2日は急斜面種目とたっていた。1日目は、浦佐勢が優位に立った。2日目、若者たちの果敢な挑戦が見られた。急斜面パラレルは前11回大会で突然2位に浮上した、浦佐の佐藤マチャアキが283点という驚異の高得点でトップを占め、1点差で三枝兼径、以下中村準一、山口正広、丸山隆文となった。
急斜面ウェーデルンは、73年ワールドカップの女子スラロームに使われた斜面で行われたが、春のくされ雪のデコボコ斜面、かなり苦しいバーンであった。
兎平、黒菱の難斜面できたえられた八方組がこの種目を圧倒していた。中でも三枝兼径のスキーが注目された。ほとんどの選手が苦しまぎれにジャンプする、その雪に柔らかな下肢を使い見事な切れるスキーを見せて、スピードに乗って難斜面を滑り切った。
三枝のスキーにピステを囲んだ観衆、そして関係者から感嘆のどよめきが起きた。5人の審査員から得点が出ると、そのどよめきは大歓声に変わっていた。
審査員のひとり佐藤俊彦は、ほぼ満点の99点を出したのである。三枝の3採用はの得点は290点であった。2位に古橋市雄284点、以下、関、阿部達夫、藤本、丸山、山田となった。
すべての種目が消化されて、順位は1位関健太郎2215点、2位藤本進2208点、3位三枝兼径2206点、以下丸山、佐藤、平川、中村、本間尚の順となった。 
上位20名の中に10位までに9人のインタースキー参加デモンストレーターが入った。

◆関健太郎と藤本進の引退

  関健太郎は第3回デモンストレーター選考会に最年少22歳でデビュー15位を閉めて注目され以後10年間、常に上位を占めて注目されてきたベテランである。
アスペン、ガルミッシュ、ビソケタトリと3回のインタースキーに日本を代表するデモンストレーターとして出場、それは日本人としては最多出場なのである。
関に敗れた藤本は、この年、若い挑戦者達にやや消極的になっていたのではなかろうか。各種目別の得点でトップをとったのは、シュテム・ターンと横滑りのみ、緩斜面のウェーデルン、ステップターンは2位となった以外は、藤本らしい滑りは見られなかった。
3月28日プリンスホテル前で行われた表彰式、第1位、関健太郎と呼び上げられた時、多くのギャラリー、そして選手達からも拍手が沸きあがった。10年間の時をかけて、関が初めて藤本の上に立った瞬間であった。
関はこの1位の栄光の時を自らの引退の時とした。また常にトップを走り続けた藤本も引退を表明した。デモンストレーター選考会はひとつの時代を終えた。

◆見る人が見てくれている

 この第12回では、もうひとつ書いておかなければならない事がある。デモンストレーター選考会廃止の論議がなされた時、審判の公平さ採点の不透明が焦点として上がっていたが、この第12回では採点に対する不満がほとんど聞かれなかった。
「今年の選考委員なら信頼できますよ、あの人たちに点数をつけられるなら少々悪い点がついても納得できるし、あきらめもつきますよ」と何人かの選手が語った。
この第12回デモンストレーター選考委員は、平沢文雄、北沢宏明、斉藤城樹、大塚太重郎、佐藤俊彦、丸山周司、古川幸永、吉田智与志、小林醇、北河茂の10名であった。小林、北河両氏を除く8人は、かつてデモンストレーター選考会の歴史を築き上げてきた名手達であり、各県のデモンストレーターチームのコーチであった。
「見る人が見てくれている」「判っている人達に評価されている」そうした安心感が全選手に落ち着きを与えていた。

◆トップレーサー小林平康の参加

 翌76年、第13回デモンストレーター選考会は、再び会場を八方の戻して行われた。藤本、関、2人のトップデモンストレーターが出場しない八方に、どんな新鋭が現れるのか、そして競技の流れはどうなるのか、ちゅうもくされたはずれある。
しかしながらその期待は裏切られた。ベテラン平川、丸山(隆)、三枝らの安定した滑りに、若者達は誰ひとり挑戦を仕掛ける者がいなかった。そうした低迷するムードを救ったのは、競技の世界から参入した、現役レーサー、切れるスキー走るスキーの小林平康であった。
予選の急斜面ウェーデルン、小林は小気味のいいリズムで難斜面を切りさいて、大歓声を浴びた。268点の高得点が出た。だがその得点をベテラン平川286点、三枝287点が抜いて行った。
コントロールのスキーが速さ切れの評価を上まわったのである。しかし、この種目でこの第13回はベテラン平川、丸山、三枝に新鋭小林の戦いになることを予告していた。
決選は春の嵐に見舞われて、雨と霧、そして時には、ひょうも振るという悪天候の中で強行された。緩斜面種目では平川、山田の浦佐がリードしていたが、小林はこの日の制限滑降(スラローム)にアルペンレーサーとしての全てを賭けていた。2走1採用のルール、わずか40秒ほどの短いコースに小林は2本ともベストタイムをたたき出した。2位以下に4秒以上のタイム差をつけていた。281点、2位以下に13点以上という圧勝であった。
その2位はかつてのアルペンレーサーであった丸山隆文が入った。最終日は、前日までの悪天候がウソの様に晴れ上がった兎平、黒菱で行われていた。
小林の真価が問われるのは、最終種目の黒菱の大斜面での総合滑降であった。「スキーはスピードです。」とスピードに対する信仰に近い思いを語る小林は、この大斜面に、速さと切れ、そしてたくましさを感じさせるスキーで圧倒した。その滑りは見ているものを酔わせる美しいものであった。
得点は287点、当然、種目の最高点であった。2位は佐藤正明282点、そして三枝、丸山と続いた。
総合順位は、1位平川、2位丸山、3位三枝とベテランが占め、小林は初出場で5位となった。平川の1位は5年振り、浦佐はデモの浦佐の伝統を守ったが、この第13回は、スピードと切れをデモンストレーター選考会に持ち込んだ小林平康の行為が記憶される大会であった。デモンストレーター選考会にに大きな転機が訪れていた。

◆浦佐のエース平川仁彦の引退

 1977年、第14回デモンストレーター選考会の前に、浦佐のエース平川仁彦が引退した。前回1位の栄光を手にした平川の引退によって、藤本、平川、関で争われていたデモンストレーター選考会はひとつの時代を終えていた。

◆競技の世界と一般スキーの世界との壁を突き砕く

 第14回の焦点は前回、競技の世界から突然参入し5位を占めた「速さのスキーヤー」小林平康であった。しかし、その小林は、予選初日に腰を痛めて、それ以降の出場を辞退してしまった。
小林はデモンストレーター選考会に出場しながら、その年の国体に新潟県代表として出場し成年2部で大回転3位に入っているのである。競技の世界と一般スキーの世界との壁を突き砕く事を成し遂げたと言えるだろう。

◆第14回の結果は、最終日の最終種目まで持ち越された

  この第14回では、八方の丸山隆文が注目された。32歳は出場選手中最高年、藤本、平川の時代にも上位に顔を出すベテランである。
予選4種目に1位2つ、2位ひとつと実力を見せ、トップに立った。決勝は、予選トップの隆文を追って、かなり緊張したムードの中で進行した。
急斜面パラレルに浦佐の山田博幸が流れるような美しいスキーで高得点を上げ1位となった。審査員の古川幸永、藤本進は96点、本間尚は93点と高い評価を与えたのである。3種目の2位は、中村準一、3位は山口正広となり丸山隆文は4位となった。
山田の急追は続くステップターンでも280点でトップを奪い、またまた浦佐からトップが出ると予感させるところまで来ていた。
決戦第一日目を終えて、トップは丸山隆文1667点、2位山口正広1652点、3位山田博幸1643点となった。
第14回の結果は、最終日の最終種目、制限滑降に持ち越されたのである。2走1採用の制限滑降に、佐藤正明が、懸命のアタックをかけた。1本目に2位のタイムを出し、2本目には、その日のベストタイムをたたき出したのである。
追われる丸山は、1本目にトップに1秒71と大差をつけられ、ちょっと危ない立場になった。しかし隆文は冷静であった。40双旗ほどの短いコースを丁寧に読み取り、2本目は安定したいい滑りを見せた。佐藤のスーパータイム22秒15に0秒79差として、逃げ切った。
3日間の激闘を終えて、1位丸山隆文、2位佐藤正明、3位山口正広、4位山田博幸、5位中村準一となった。
1971年 第8回大会ガルミッシュ組が上位を占めた中で初出場で10位を占め、続いて9位、6位、3位、4位、2位と順調に上りつめて来た隆文に賞賛の拍手が送られた。

◆新しい潮流

 この第14回前後、出場するスキーヤーを含む多くの人々にデモンストレーター選考会とは何か、デモンストレーターとは何か、といった論議が長い間行われていたが、この14回頃から、その方向が見えてきた。
平川、藤本らは現役デモンストレーターだった数年前、平川が私に「デモンストレーターのSAJ内における位置づけがはっきりしない」と何度も問いかけていたし、藤本は「一般スキーヤーの技術評価を決める選手権と考えていいですよね」と語っていた。15年という時の流れは、そうしうた迷いを消し新しい潮流を生み出そうとしていた。
「デモンストレーターは秀れたスキー教師でなければならない」という思想、スキー教師としての教養や生活態度といったものまでを選考の中に加えるといった考え方は薄れ、デモンストレーター選考会はうまいスキーヤーを選び出す競技会化が進行していった。
SAJの幹部たちも「デモンストレーターは基礎スキー界における全日本選手権大会を勝ち抜いて来たスキーヤー(スキー教師とは言わない)であり、正しいスキー技術の普及のために全日本スキー教程の正確な具現者である」という位置づけが定着していた。
デモンストレーター選考会に出場するスキーヤー(スキー教師とは呼ばない)たちは「自分の技術をどう評価されるか」、「自分は日本人のスキーヤーの中でどのレベルにいるか」という思いから参加し、中には「デモンストレーターになるとカッコイイから」と挑戦してくるものが増えていた。15年の間に参加者の意識も変わっていたのである。

◆べテラン丸山隆文に小林平康と山田博幸

  1978年第15回デモンストレーター選考会は、八方で開催された。このデモンストレーター選考会は、次の年1979年日本の蔵王で開かれる、第11回インタースキーの代表デモンストレーターを選考する予選会となった。それまでの大会に増して熱気のあるものとなった。
八方の天候が安定した時期ということで、前回に引き続きこの第15回も3月13日から17日までと、ほぼ2週間はやめて行われた。
八方は絶好のコンディションとなっていた。予選4種目では、ベテラン組が上位を占めた。緩斜面パラレルでトップは丸山隆文、2位宮津久雄、3位相田芳男、4位三枝兼径、5位山口正広、そしてシュテムターンでもこの大会では、ほとんど同じ顔ぶれが並んだ。山田、中村、丸山、相田、高柳、三枝となった。
ベテランはやはり強いと思われた。その予選の中で、前年度、無念の故障に泣いた小林平康が注目されていた。「速さ」を武器にする小林平康のスキーに注目が集まった。彼の得意種目と言えた急斜面ウェーデルン、総合滑降に多くのギャラリーが集まった。
コブは例年を上回る大きさになり谷の溝には新雪がたまるという厳しい状況になっていた。小林はこの難斜面を一気に滑り降りた、他を圧する速さでありリズムがあった。観衆を酔わせたそのスキーに282点の高得点が出た。
この小林と対照的なスキーを見せたのは山田であった。流れる様なリズムに乗って華麗に舞う山田に、小林にも劣らぬ拍手が沸いた。282点。小林とこの種目の1位を分け合った。
決戦最終日も好天気に恵まれ競技は順調進行した。黒菱の大斜面での総合滑降、小林は山口正広に続く2位、山口の282点と小林の280点との間の2点は、山口の多彩な種目選びの勝利といえた。小林はスピード溢れる果敢なスピードで全コースをパラレルターンで押し切った。単調と見られたのが2点差の結果であった。
制限滑走(2走1採用のスラローム)は当然と言える結果が出た。1位小林、2位渡辺三郎、3位佐藤正人である。
全種目を終えて、1位は丸山隆文の2連勝、そして次の年蔵王で開かれる第11回インタースキーに出場する30名のデモンストレーターが選出された。 丸山はキャプテン、小林、山田がエースと格付けされた。
この大会を見学していたオーストリアの名デモンストレーター、フランツ・ラウターは、小林、山田の2人が群を抜いていたと語った。
丸山の2連勝に先輩平沢文雄は、「努力の人、研究の人、学ぶべきことを学び、聞くべきことを聞く人」と隆文を評価した。藤本・平川の時代から、小林、山田の時代に移るその時、丸山は確かな架け橋の役割を果たしていた。
蔵王インタースキーを前に、日本のスキーはオーストラリアスキー一辺倒の時代、様式美と言われた正確で美しいスキーの時代、そして、スキーに新しい魅力、そして可能性を感じさせる時代に移っていた。

◆蔵王インタースキーSAJデモンストレーター30名

 丸山隆文、山田博幸、佐藤正明、相田芳男、山口正広、三枝兼径、中村準一、小林平康、長谷川昭次、小幡秀夫、五十嵐栄一、宮津久男、太谷陽一、吉田幸一、片山強、岡崎良治、中林正樹、佐野正明、柳橋泰久、阿部達夫、小沢哲、佐藤正人、萩原利明、鈴木良雄、関晃、工藤正照、星野正晴、丸山健吉、丸山員治、村上毅

(連載05へつづく)


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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