【連載36】インタースキーとは何だろう(その1) Shiga Zin



横浜みなとみらいクイーンズイースト「魚力」にて ヨシミちゃんと志賀Zinさん

◆インタースキー まさにそれは歴史と呼んでいい重いファイルを残している行事

 「インタースキーとは何だろう」 スキーファンの多くは、そう考えあぐねているに違いない。昨シーズン、スキー界の最大の行事は隣国韓国のピョンチャン郡ヨンピョンスキー場で開かれた第18回インタースキーである。
このインタースキー、第1回がオーストリアのツールスで開かれてから56年、そして日本が初めて公式参加した1965年バドガスタイン第7回大会から数えて42年。日本のスキー場でも1979年蔵王、1995年野沢と2回開催されている。まさにそれは歴史と呼んでいい重いファイルを残している行事なのである。ところが日本では今でも「インタースキーとは何だ」という声ばかりが聞かれるのである。不思議な現象といっていい。
私はこのインタースキーに1968年に参加以来、前回のクランモンタナの17回まで全てに参加して、各大会ごとに長文のレポートをスキーマスコミや一般の新聞などに書き送ってきた。残念ながらピョンチャンの18回は体調がすぐれないために欠席することになったのだが、ヨーロッパから帰国してからかなり多くのスキー関係者にピョンチャンのインタースキーはどうだったかを聞いた。しかしどの関係者の口からも何も聞き出すことはできなかった。

2007年8月10日 志賀さんのインタービュー
「誰も知らない…そんな不思議な話」

 



韓国ピョンチャン大会 開会式の様子

◆インタースキー活動の方向性は見えたのか

  そして、このインタースキーの情報がされるはずのスキー雑誌を待った。だが、その期待は裏切られた。スキージャーナルに電話を入れ、太宰編集長に文句をつけた。彼女は、「先生、何もしてない訳ではないですよ、小さな記事になりましたけど、ちゃんと扱ってますよ」と答えが返って来た。それは申し訳ないと、古いジャーナルをもう一度点検してみた。4月号に、モノクロ4頁が、「初の韓国開催でインタースキーの新しい方向性は見えたのか」という記事を見つけ出した。
ジャーナルのエースである井上淳君の記事は、「インタースキーは何なの」という書き出しで始まり 「インタースキー活動の方向性は見えたのか」で終わっている。
ジャーナルのエース記者ですら、そこで行われたことの真意、そしてインタースキーの今を、報告することが出来ていない、ということを、私はそのレポートを読んで感じてしまった。さて、「インタースキーとは何か」「インタースキーで何が話し合われたのか」そして「インタースキーは将来に向けて何を提案しているのか」それは全く見えていない。
このジャーナルのレポート以外、日本のマスメディアはピョンチャンのインタースキーに関する記事は見当たらない。韓国の人々は、冬季オリンピックの招致と同じレベルでこのインタースキーに大きな期待をかけていたと思われる。そのインタースキーが隣国日本でこうした冷たい扱いを受けていることに韓国の関係者はどれ程の落胆を味わっているだろうか、そう考えると胸が痛む。
何故こうなってしまったのか。私はこのインタースキー運動の歴史を改めて検証してみたい。


韓国インタースキー総会で挨拶する、エーリヒ・メルマー会長

◆戦勝国フランスのフレンチメソードが、アールベルグスキー技法を追い落す

 日本人にとって、日本のスキー界にとってインタースキーとは何だったのだろうか。私は今、その答えを探している。
1951年オーストリアの西、アールベルグ峠のすぐ下にあるツールスという小さなスキー場で開かれた第一回大会は、どうゆう経緯で開かれたのか、私はかって、その当時の様子をその大会にこぎつけるため尽力されたスティファン・クルッケンハウザー教授に伺ったことがある。
教授は、インタースキーの開催までに至った世界のスキー情勢について語り、その中でオーストリアスキー技法とフランススキー技法とのきびしい対立について語った。
第二次世界大戦が終わりヨーロッパに平和が訪れたとき、多くのスキーヤーが各地のスキー場に戻ってきた。そのスキーファンに教えるスキー技法は、戦前から多くの支持を集めていたサンアントンの名スキー教師、ハンネス・シュナイダーの提唱するアールベルグスキーであった筈だが、戦勝国フランスのエミール・アレーの創案とされるフレンチメソード(1938年発刊)が、アールベルグスキー技法を追い落とし、オーストリア国内のスキー場もフレンチメソード ローテーション技法が浸透していた。
こうした状況に危機感を抱いていた教授は、スキー先進国と目される各国の指導者に呼びかけ、スキーの指導理論、スキーの技術論を話し合う場として、世界のスキーを一堂に集めた会議を提唱したのである。
その教授の要請を受けて、フランスを初めスイス、イタリア、スウェーデン、ポーランド、アメリカ、カナダといった国々がその会議に代表を送ることになった。ツールスの会議には8ヶ国が参加している。

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◆オーストリア、フランスの2国による激しい技術論争

 オーストリアは、その会議にその当時オーストリア各地でスキー指導を行っている全ての有名教師を出席させ、オーストリアチームのほとんど全ての名手を出場させている。
オーストリアより優位に立っているフランスも、フランコ・キャスパー教授を初め、その当時アルペン競技の名手と呼ばれていた、ジャム・クテ、アンリ・オレイエ、シャルル・ボソンといった名手を参加させている。
その当時アルペン競技の世界トップにあったオーストリアは、名手、トニー・ピース、そして若いカール・シュランツ少年を参加させた。オーストリアのツールスの斜面で演じられたスキーは世界の人々を感嘆させるものとなった。
オーストリア、フランスの2国による技術論争は、この時に始まったといっていい。このツールス会議におけるフランスとオーストリアの対立は激しいものであった。
その対立の焦点となったのは、ツールスからほど近いゼーフェルドから来たスキー教師、アントン・ゼーロスの言葉であった。「フランススキーと呼ばれるエミール・アレーの提唱するメソードは、俺の技術をアレーが盗んだものだ」と声高に叫んだのである。
アントン・ゼーロスはアルペン競技が1928年、サンアントンで開始された当時からスラロームに圧倒的な強さを誇った名手である。1931年のスイスミューレンの第一回世界選手権大会のスラローム2位、続く1932年コルチナ大会のスラローム4位、1933年のインスブルックでは1位と活躍し、アールベルグ・カンダハーレースでも1832年3位となって、スラロームの鬼神と呼ばれ、そのターンの技法はテンポシュブングともてはやされていた。 そのゼーロスのもとに彼の技法を学ぶ男たちが集まって来た。その中にフランスシャモニーの若者エミール・アレーが居たのである。アレーはゼーロスの技法を習得し、帰国してから、自らの技法としてフレンチメソードを1938年に発表し、世界中にアレーの技法として受け入れられたのである。
美しい写真を使い大胆なレイアウトを採用したエミール・アレーのフレンチメソードは世界中の人々を感嘆させていた。


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1938年に刊行された「フレンチメソッド」の中からエミール・アレーの表情と滑り
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より

◆第3回、第6回の2回の客員参加は、日本のスキー界に極めて大きな影響を与えた

  そのツールスの会議のあと2回目をスイスのダボスで開かれることになり、続いて3回目をフランスのヴァルディゼール、4回目をスウェーデンのストーリエンと受け継がれることになった。
参加国は、ツールス8ヶ国、ダボス10ヶ国、ヴァルディゼール13ヶ国と増え続け、1962年イタリアのモンテボンドーネの第6回では20ヶ国となっている。
日本のスキー界では、1955年、フランスのヴァルディゼールでの第3回大会に当時フランス、シャモニーの国立スキー教師養成学校(ENSA)に留学中の片桐求A橋本茂生の2人がフランス側の客員として参加。1962年のイタリア、モンテボンドーネの第6回にオーストリアのサンクリストフのスキー教師養成コースに参加していた大熊勝朗、西山実幾、中沢清、柴田信一の4氏がオーストリアの客員として参加している。
2回のインタースキー参加は、日本のスキー界に極めて大きな影響を与えている。1957年のヴァルディゼール大会以降は、日本のスキーは大きくフランススキーに傾き、1962年のモンテボンドーネインタースキー参加は、日本のスキーをオーストリア一辺倒の流れに呼び込んでいるのである。

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1955年フランスに渡り、第3回インタスキーを見学した片桐匡(右)、橋本茂生(左)
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より


左から、大熊勝朗、西山実幾、柴田新一
「JAPANスキーこの素晴らしき人たち」1987年 長尾幹夫写真集より

◆日本のスキー界は、フランススキーかオーストリアスキーかで揺れていた

1950年代の後半から1960年代の前半は、日本のスキー界はフランススキーかオーストリアスキーかに揺れていた。
その当時、一般のスキーファン達は、「去年までロタシォンだったのに、今年はへそ天かよ」と戸惑っていたのである。
フランス、オーストリアの主張は全く対立していたのである。フランスのローティション技法は、上体を進行方向に振り向けるのに対し、オーストリアは、逆ひねりという技法を推進していた。
SAJがヨーロッパのスキー事情を視察するために送った4人の理事たちの帰国報告が、フランスかオーストリアかの論争に決定的な方向性を与えることとなった。
「スキーに学ぶべきものはオーストリアしかない」。 4人のリーダーであった大熊勝朗さんはそう断言して、日本のスキー界をオーストリア一辺倒に誘導した。
日本のスキー界を2分したフランスかオーストリアかの論争は、大熊さんのひとことで消滅した。1950年代、フランスの名手、アンリ・オレィエ、シャルル・ボゾン、フランソワ・ボンリューの来日に沸いた日本のスキー界は、1960年代に入り、サンアントンの名スキー教師、ルディ・マット、ザルツブルグ郊外の名教師、フランツ・デリブル、そしてサンクリストフのオーストリアの総帥、スティファン・クルッケンハウザー教授とウェーデルンの神様、フランツ・フルトナー、バルトル・ノイマイヤーと、たて続けにオーストリアスキーの伝道者たちが日本を訪れている。

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フランツ・デリブル へそ天スタイル

◆第7回バドガスタイン 日本初参加 日本のスキーを知ってもらい世界のスキーを確かめた

 1962年モンテボンドーネの第6回インタースキーを見学した4人の日本スキー界のリーダー達の発案で、バドガスタインで開かれる次回1965年の第7回大会に参加しようという決定が出され、その大会に参加する日本のスキー代表を決めるための選考会が蔵王、八方尾根で開かれた。デモ選(デモンストレーター選考会)と呼ばれたその行事はその後毎年開かれ、現在の全日本スキー技術選手権大会となっているのである。
インタースキー初参加、その栄光のデモンストレーター選考会の結果、上位5人は、平川啓紀、平沢文雄、宮沢秀雄、北沢宏明、丸山庄司となった。その決定の直後、トップの平川啓紀が身体の不調を理由に代表を辞退し次点の斉藤城樹が繰り上げられた。トップの平川から斉藤まで、ク教授の講習会で助手を努めた男たちによって占められた。第一回デモ選1位、そしてバドガスタインインタースキー代表デモ、その栄光をつかみながら代表の座を辞退した平川啓紀の無念はどれ程のものであったろう。私は今なほその時の啓紀の心に胸が痛む。
平川啓紀を欠いた5人のデモを含む日本スキー代表団は、第7回インタースキーの世界で22番目のインタースキー参加国となった。
5人の若者たちのスキー技術に対する評価は高く、デモ会場は絶賛の嵐につつまれた。「遠い東洋の国、日本から来たクルッケンハウザー教授の孫たちは、オーストリアの技法をオーストリアのデモたちより流麗に美しく演じて見せた」。 当時のオーストリアの新聞はそう称えた。
第7回インタースキーは大成功といえる成果を上げて終わった。そこには、オーストリアかフランスかの対立もなく、これからのスキーの世界をどのような方向に導いていくのかとする共通の目標が設定された。
中川新団長以下5人のデモを含む10名の代表団は、オーストリアのお土産を手に帰国した。その最大の土産は、「世界の人々に日本のスキーを知ってもらい、世界のスキーを日本人の目で確かめたこと」だったはずである。

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平川啓紀

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1965年、第7回バドガスタイン・インタースキーに参加した日本のデモンストレーターチーム
右から、丸山庄司、斉藤城樹、北沢宏明、宮沢英雄、平沢文雄
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より

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ゲレンデで歓談する日本とオーストリアのデモンストレーター
「第7回世界スキー指導者会議出席報告 」SAJ 平凡社刊より

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「第7回世界スキー指導者会議出席報告 」SAJ 平凡社刊より


◆第8回のアスペンは、オーストリア、フランスの歩みよりによって、全く新しい時代に

 1968年アメリカのアスペンで開かれる第8回インタースキーに向けて、日本のスキー界は加熱していった。「競技スキーにオリンピックと世界選手権があるなら一般スキー(基礎スキー)にはインタースキーがある。」 そうした思いが、日本スキー界に浸透していた。
「インタースキーのデモになる」という夢は、日本のスキー界の若者たちに研鑽の目標を与えていた。デモ選の会場は年と共に加熱していった。
その熱い空気の中で、八方尾根の第4回デモ選にひとりの若者がおどり出た。熊の湯のひとり息子、佐藤勝俊である。春の八方のくされ雪の中を見事に切りさいた勝俊は、一気に代表の座をしとめ、熊の湯のパンチョの名を日本のスキー界に刻みつけた。
アメリカ大陸で初めて開かれた1968年第8回インタースキーは、アメリカらしい華やいだムードの市中行進で始まった。参加国は18ヶ国、日本はこのインタースキーにデモ8人を含む38名の代表団を送った。団長は南波初太郎、役員は大熊勝朗、小島弘平、鈴木正彦ら7名、コーチとして青木巌ら4名、その中には、バドガスタインデモの平沢文雄がいた。そして晴れの舞台で、日本のスキーを演ずるデモは、斉藤城樹、佐藤勝俊、丸山周司、関健太郎、加藤純、佐藤俊彦、古川幸永、山岸慶一郎の8名であった。
私たちにとって初めてのアメリカ滞在は極め心持良いものであった。アスペンの人々は、敗戦国日本のスキーヤー達にやさしく接してくれた。そのアスペンの第8回インタースキーは、インタースキー史上もっとも内容のある大会となった。その最大のものは、オーストリア、フランスの技術論争に終止符が打たれたことであったろう。
オーストリアは、それまでの主張であったプルークボーゲンからシュテム・シュブング、そしてその延長線上にパラレル、ウェーデルンがあるとした主張を引っ込め、グルンド・シュブングから、ウェーデルン、パラレル、シュテムという上級技法に直接結びつける指導理論を発表。フランスは、ローテションを撤回して、フレンチ・ニューターンと呼ぶ外向傾姿勢を取り入れた高速ターンを披露したのである。2つの国の理論を展開して見せたのは、オーストリアのフランツ・ホッピヒラー教授、そしてシャモニーENSAのダニエル・ジョンビルの2人の若い研究者であった。鋭い対立を続けて来た2つの創始国はガッチリと手を握り合うことになった。
「お互いに相手の理論を尊重し、いいものはいいとして採用、誤った理論は捨てる。」という理解に達していた。
オーストリアのクルッケンハウザー教授は「私たちは、スキー技術の研究を、最先端の技術を持つトップレーサーの技法の分析から始めていた。今私たちは、何も教えない子供たちが、どうスキーをし、どう成長していくかを慎重に観察することから新たな指導法を見付けることができた。」と語り、段階的に技術を組み上げていく指導法から、グルンド・シュブングから、横並びに技術の幅をひろげて行くトータルスキーイングの思想を採用した経緯を解説してみせた。(下の解説図を参照)
オーストリア、フランスの歩みよりによって、インタースキー運動は全く新しい時代に入ったのである。

志賀Zinさん写真画像
志賀さん直筆の解説図


8人の息もピタリと合った見事なデモは世界をアッといわせた
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より


「世界のスキー」
1991年12月発刊 山と渓谷社より

←左の写真 シュテムボーゲン

1955年発刊のオーストリアスキー教程の中のシュテムボーゲン。 この技術の上にシュテムシュブングがあった。左右のスキーの踏み替えと、外向傾姿勢、外足荷重の動きが見える。

↓下の写真 

アスペンインタースキー(1968年)で発表された。 グルンドシュブングからパラレルシュブングに連なるターン。両スキーが常に踏まれ、パラレルシュブングと同じ技術要素を持っていることが分かる。


オーストリアスキー教程から(1987年発刊)



1968年アスペンインタースキーの最終日、突然世界中のスキー教師達が一緒に滑り始めた。
「世界のスキーはひとつに」とするアスペンが掲げた理想が目の前で実演されたのである。 (コメント:志賀Zin)
写真は「世界のスキー」アスペンからの報告書 冬樹社 より



「世界のスキー」アスペンからの報告書
1968年12月出版  冬樹社

 

◆第9回のガルミッシュは、コブの急斜面に対応する技術を求める大会

 アスペン以後、インタースキーは常に新たなテーマを求める大会となった。第9回ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンの大会には23ヶ国が参加、日本も団長天野誠一以下役員10名デモンストレーター8人からなる代表団を送っている。8人のデモは佐藤俊彦、丸山周司、平川仁彦、藤本進、関健太郎、吉田智与士、佐藤富郎、橘康男であった。
その当時、世界のスキーは拡大を続け、スキー場のムードは一変していた。どこのスキー場にも、急斜面は深いコブにおおわれ、その凸凹の斜面をどうスムーズに滑り降りるかに焦点があてられていたのである。
日本でも志賀高原の丸池やジャイアントコース、そして熊の湯の前山、八方尾根といった急斜面に若者達が挑戦する姿が見られた。
第9回のガルミッシュは、コブの急斜面に対応する技術を求める大会となった。地元のドイツからは、シュロイダーテクニックと呼ばれる前衛技術が紹介され、オーストリアは、ベーレンテクニック、フランスからアバルマン技法、スイスはOKテクニック、そして日本からも、熊の湯の佐藤勝俊君のパンチョターン(後に曲進系技法と呼ばれることになる)が披露された。
スイスのカール・ガンマは、その状況を「世界中のスキー国が同じ技法をそれぞれの国の言葉で、表現してみせたインタースキー」とレポートしている。
その第9回インタースキーの最終日、オーストリアのクルッケンハウザー教授の提案によって、デモ斜面の一隅に特設された凸凹斜面で、各国のトップデモによる競演会が行われた。 「ターフェルピステ(悪魔のピステ)」と呼ばれたその斜面を、コブの新技法を提唱した国々のデモによって、どう滑るかを比較しようという試みであった。
日本のデモの中から、平川、藤本、関、吉田の4人が出場した。各国の名手が苦闘する中で、日本の4人は楽しそうにその難斜面を滑っていた。世界中のスキー指導者に日本のスキーの技術水準の高さを認めさせる競演であった。
日本はこのインタースキーで確固たる一流国に中にいた。次の次の第11回1979年は日本の蔵王で開催されることになった。


熊の湯のパンチョ”と呼ばれた佐藤勝俊の深雪の見事なフォーム。その当時、こうした深い新雪の斜面でターンを続けて滑ることのできるスキーヤーは殆どいなかった時代である。私は熊の湯に泊まり込んで、彼の技術を撮った。この勝俊のスキー技法を西山実幾さんがパンチョターンとして分析してみせた。それが第9回インタースキーのデモ達に伝えられ、曲進技法として世界を驚かせた
雪に埋まる深雪のパンチョ(志賀) 1968年10月1日「毎日グラフ」より


熊の湯の前山の新雪を滑るパンチョターン、沈み込み、立ち上がりの様子が良く分かる。当時の高速分解カメラは1秒間に4枚程度しか撮影することしかできなかった。写真は4枚を合成したもので西山さんの研究の助けになったと思われる。屈膝平踏み、先落とし、と西山さんは解説したが、後に抱え込み、蹴り出し、といった解説も生まれた。
雪に埋まる深雪のパンチョ(志賀) 1968年10月1日「毎日グラフ」より


1970年1月 サン・クリストフで発表されたヴェーレンテクニック
「世界のスキー」1991年12月発刊 山と渓谷社より

◆第10回ビソケタトリ 日本は古いオーストリア技法を主張、世界の人々を驚かせた

 1975年第10回インタースキーは、長い間、ソ連の支配下にあったチェコのビソケタトリとなっていた。日本からは西山実幾さんに替わって教育本部長になった管秀文さんを団長として80人の代表が参加している。デモンストレーターは、前回の藤本、平川、関、吉田についで丸山隆文、増田千春、山口正広、三枝兼径、佐藤正明、山田博幸の10名であった。
この10回で日本は、前回のガルミッシュで好評を受けた曲進系技法を捨て、古いオーストリア技法を主張、世界の人々を驚かせた。

◆第11回蔵王 最大の親善友好の大会、お祭りになった

 1979年、東洋の雪の上で初めて開かれた蔵王インタースキーは、遠い国にもかかわらず史上最大の24ヶ国の参加を得て華やかに開催された。東洋への憧れ、よく知られていた樹氷への関心が、この蔵王大会を史上最大の大会にしたと思われる。
地元山形県、山形市、蔵王町はこの行事に精一杯の歓迎を示して世界の人々を迎えた。蔵王インタースキーは、スキーの世界最大の親善友好の大会、お祭りになった。
この蔵王インタースキーについての日本人の関心は高く、日本の代表団はSAJ会長の伴素彦さん、実行委員会長に高鳥修さん、そして委員にSAJから伊黒正次、管秀文、渡辺才智、岸英三、佐藤隆、郷津勝の6人加え、この大会からSAJと協力して大会運営に当たるとしてSIA(日本職業スキー教師協会)から若林省三、杉山進、黒岩達介、土技良次、渡辺政子の5人が参加している。
まさに、日本のスキー界を上げての取り組みとなり、デモンストレーターを含む役員数は2520名となったのである。思い返してみれば、1970年後半から1980年までの期間は世界中にスキーブームが溢れていて、日本でも空前のスキーブームに酔っていた時代である。同時に国中が好景気に沸いていた時期でもある。
1965年バドガスタイン第7回の10名、続く1968年アスペンの第8回の38名(プレスを含む)、ガルミッシュ第9回の50名、そして1979年ビソケタトリの第10回の80名という人数から見れば信じられない数といえるだろう。
インタースキーとは何か、その問に蔵王は、「世界中のスキーをする国のスキー教師たちが集まって、親睦を深める」という側面が明確になった大会であったと言えるだろう。
「これはインタースキーではない。私たちはインタースキーを元に戻すために次回の大会を運営する」と、イタリア代表のフーベルト・フィンク教授は怒気を含めて語った。
インタースキーは大きな転機を迎えていた。(次号に続く)

以上

 


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
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連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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