【連載12】二つの団体 Shiga Zin


※連載12は、独立となります。


ホッホグーグルのホテル アンゲラルアルムにて

◆二つの団体


志賀仁郎さん

山田広報委員長に原稿を

三浦敬三さん
日本スキー教程「スキーへの誘い」より

フランツ・デリブルと杉山進

杉山進/カメラ 志賀仁郎

杉山進のトップスキーの内容


ク教授の講習会(八方尾根)


日本職業スキー教師連盟デモンストレーション

日本職業スキー教師連盟デモンストレーション

 日本のスキー界、特にスキー教師を見廻して、もっとも不可解なのは、スキー教師の資格認定が、二つの団体で行われていることではあるまいか。
オーストリア、フランス、ドイツ、スイスといったこのスポーツの先進国には、それぞれ、スキー教師養成のきびしい職業訓練のコースがあり、きびしい資格取得のための試験がある。そしてその資格は、国の機関によって厳重に管理され、厚く保護されている。
ところが、日本では、全日本スキー連盟(SAJ)のスキー指導員と、日本職業スキー連盟(SIA)のスキー教師と、二つのスキーを教える資格を発給する組織があり、それぞれが勝手にスキー教師という職業を認定している。そうした状況は私の知る限り日本にしかない奇妙な状況なのである。

◆このレポートは志賀仁郎の私的な見解

 どうして、その奇妙な状況が生まれたのか。それは、40年前に遡る。長い長いいってみればヤクザの抗争事件のような歴史の中に生じた、状況なのだと私は考えている。
かなり危険なレポートだが私は、ここでその歴史を私なりの見聞、理解で記録しておきたい。再三言うが、このレポートは、あくまでも、私、志賀仁郎の私的な見解なのである。

◆日本初のプロスキーヤーは、水上久

  プロスキーヤーという呼び名で呼ばれる男たちがスキーの世界に現れたのは1950年のオスロオリンピックに猪谷千春選手と共に出場した水上久が、上越の岩原で、都会の金持ちスキーヤーに、スキーを教えてお金をもらうという生活を始めたのが日本におけるプロスキーヤーの初めてといえるだろう。「水さん」「水さん」と愛称で呼ばれ、かなりの収入があったと言われている。
その成功を見て、1958年バドガスタイン世界選手権代表だった園部勝と、59年ユニバシアード参加の井上恵造が、新興スキー場、苗場でプロスキースクールを開き、人気を獲得し、プロスキーヤーブームのキッカケが生まれた。

◆スーパースターが造られた

  このブームの中で、ひとりのスーパースターが、造られた。その当時スキー映画という分野を切り開いていた福原健次さんのフクハラフィルムが、売り出した三浦雄一郎である。青森の八甲田山で、仙人のように扱われていたスキーの理論家、三浦敬三さんの息子、雄一郎はフクハラフィルムが生み出したスターであった。
「富士山直滑降」「ヨーロッパ最大の氷河バレー・ブランシュを滑る」「ニュージーランド タスマン氷河を滑る」どの映画も、大冒険と宣伝されて、スキー映画会の主役となった。
今なら、バレー・ブランシュ、タスマン氷河が、60歳、70歳の老人たちがワインとサンドイッチを持って、のんびり楽しむ場所ということを、多くの人たちが知っているが、その当時は、たいへんな冒険スキーと錯覚されていたのである。プロスキーヤー三浦雄一郎は、スキー界のスーパースターとなった。

◆オーストリア国家認定を受けた杉山進

 三浦と並んで注目されたのは、杉山進であった。杉山は猪谷千春と一緒に1956年のコルチナオリンピックに出場した日本のアルペン競技界のエースであった。全日本選手権に5回の優勝という力を持つ杉山は次の1960年スクォバレーの冬季オリンピックの出場をねらっていたが、「若手にチャンスを与える」という全日本スキー連盟の方針によって、その夢を断たれた。引退。その年、来日したフランツ・デリブルの助手として、一般の人にオーストリア流のスキーを教える仕事を選んだ。このデリブルとの交流がきっかけとなって、杉山は、スキー大国オーストリアに渡り、サン・クリストフのブンデスハイムで、オーストリアのスキー教師養成のコースに入るチャンスをつかみ、すさまじい努力の末、「日本人で初めて、オーストリア国家検定のスキー教師の認定」を受けて帰国した。(1963年)

◆スギヤマススム スキースクール

  その杉山は、帰国するやいなや、自分の名前を付けた、スキースクール、スギヤマススムスキー用品店であった。その行為は、日本のスポーツ界の常識をはるかに越える、行為であった。
IOC(国際オリンピック連盟)、JOC(日本オリンピック委員会)のどちらも、「自らの競技で得た名声を、商業的に利用してはならない」とする規定があり、それに反することは、アマチュアの資格を失うことになる行為であった。
私の知る限り、これ程明白なアマチュア規定に反する、行為を行ったスキーヤーはいない。例をとれば、コルチナ三冠王のトニーザイラーも、トニーザイラースキー学校を名乗ったことはなく、キッツビューエルにオリンピック三冠王のトニーが居る、としてトニーは子供たちにスキーを教える教室をキッツビューエルのほんの片隅で開き、カール・シュランツも、アールベルグスキー学校のひとりのスキー教師として働いていた。
キッツビューエルに行って子供をスキー学校にあずければ、あのトニー・ザイラーが面倒を見てくれる。サンアントンに行って、スキー学校に入れば、運が良ければ、カール・シュランツと一緒に滑ることができる。というのがヨーロッパの常識であった。
スギヤマ・ススムスキースクール、それは、自ら日本のスキー界(SAJ)への決別のメッセージだったはずである。SAJはその杉山の行為に異常ともいえる反発を見せた。杉山はプロだからSAJの指導員たちは接触するなと指示したのである。

◆クルッケンハウザー教授の講習会

  1966年から67年の冬のシーズン、オーストリアのサンクリストフブンデスハイムの校長であり、インタースキー会長であるクルッケンハウザー教授が二人の若いスキー教師を伴って来日、SAJの指導員研修会の講師として日本各地で「新しいオーストリアスキーの指導法」を伝えていた。ワウ・ワウシュブングという言葉が日本中に浸透していた。
そのクルッケンハウザー教授研修会のひとつが志賀高原の丸池で行われた。その時、クルッケンハウザー教授はその研修会の助手に杉山を希望、マスコミは二人のオーストリア教師と一緒に滑る杉山を撮りたいと要求、その回答は「NO]。大熊勝郎、管秀文のSAJ幹部たちは、杉山をクルッケンハウザー教授の通訳としてのみ認めるがスキー教師としては認めない。というもの。
杉山は、長靴をはいて、クルッケンハウザー教授のそばに立った。1960年スクォバレーオリンピック代表を外されたこと、そしてこの丸池の事件で、杉山のSAJに対する怨念は固まっていった。

◆日本のプロスキーヤーズ協会の設立宣言

  プロスキーヤーブームは加速していた。 プロと自ら名乗れば食っていけるとする流れが生まれていた。かなりいかがわしい連中もプロスキーヤーを名乗り、そのうまい商売に参入して来た。
そうした流れを整理しようと、2年前1966年に創刊されたスキー専門誌スキージャーナルが動き、1968年春、苗場でプロスキーヤーズフェスティバルと名付けられた集会が行われた。
派手なパフォーマンスを演ずる三浦雄一郎をリーダーとするスノードルフィンチーム、そして園部、井上の苗場プロスキー学校、見谷昌禧のひきいるチームが、観衆、マスコミの視線を集めていた。その中に、杉山進もスギヤマススムスキースクールの姿はなかった。
その苗場で「日本のプロスキーヤーズ協会」の設立の宣言が出された。リーダーは三浦雄一郎であった。
杉山を欠いたプロスキーヤーの集団は成り立たない。スキージャーナル社の滝泰造らは、懸命の説得を試みた。しかし、杉山は固辞した。杉山の主張は、「われわれはプロのスキー教師であり、プロスキーヤーと名乗るショウやパフォーマンスで売る仕事はしていない」と言うもの。

◆日本職業スキー教師連盟と国際職業スキー教師連盟への加入

  「日本職業スキー教師連盟」それが結論であった。文部省に認定を申請、それが認められてSIAは、日本のスキー界に存在する新たな集団となった。会長には、猪谷千春の父で、猪谷スキースクールを主催する、猪谷六合雄がなった。
そしてその集団は、1971年ガルミッシュの第9回インタースキーの場で、国際職業スキー教師連盟に加入が認められたのである。
上部団体への加入は、どの様な世界でも「全員の3分の2以上の賛成が得られなければならない」は常識であろう。どんな小さな会社の労働組合でも、総評に加盟するか全労に加盟するかは、組合員全員の意志の確認が必要というのが一般社会の常識であるはず、SIAは、猪谷会長と杉山、黒岩、若林ら数人の意志でその加盟を申請している。奇妙な経緯であった。しかし、その加盟はSIAに強大な力を与えることになった。

◆国際的な地位を築く

 ガルミッシュ、ビソケタトリの2度のインタースキーを経て、1979年第11回のインタースキーが遠い東洋のスキー国、日本の蔵王で開催されることになった。
開催する地元、山形県、山形市、蔵王村は、世界のスキー教師に信頼され、彼らと話ができる杉山を、大会の事務総長に任命したのである。
蔵王インタースキーは、それまでのどのインタースキーとも異なったインタースキーとなった。「世界中のスキー教師の4年に一度のお祭り」それが蔵王であった。
「蔵王インタースキーは杉山がやったインタースキー」といった評価が、世界のスキー教師の間にひろがっていた。
続く1983年イタリアのセストで行われた第12回インタースキーに続く、1987年サンアントン第13回、そして1991年日本の野沢温泉で開かれた第14回インタースキーと続くインタースキーに杉山進のひきいるSIAは、日本でのスキースポーツの総本山を自認するSAJに対抗する集団として国際的な地位を築いているのである。

◆SAJの教師たちの動き

 二つの組織がそれぞれスキー教師の資格を認定するという不可解な状況はこうして日本に定着した。プロと自称するスキー学校は現在140校を越えている。
このSIAの動きに危機感をつのらせたSAJのスキー教師たちは、専任スキー教師協会と呼ぶ組織を作り、各地でプロと同じ活動をしている地元のスキー指導員を糾合して自分達の立場を主張している。そのリーダーは会長に蔵王の岸英三、幹事長に平沢文雄と言う顔ぶれであった。
当時、平沢の考え方は、全国のSAJの常設スキー学校で働くスキー教師たちのひとりひとりの認識、判断で、「自分はプロのスキー教師だ」とする自覚を持った人々が、個人の資格でその組織に参加する。と言うもの。
平沢は言う。杉山、黒岩らをリーダーとするSIAは個人個人のスキー教師の参加を求めず、言ってみればプロスキー学校の経営者の集まりであり、私たちの専任スキー教師協会は、ひとりひとりのスキー教師が、自分は冬の職業としてスキー教師をやっているんだとする個人の集合体だと。
協会を設立した当初、これに参加を表明したスキー教師(SAJの指導員)は千人にも上回ると思われていた。ところが、この組織は、SAJ教育本部の偉い人達の賛成が得られず、挫折した。「我々はプロのスキー教師だと自任する」という言葉に拒否反応を見せたのである。
「スーパーアマチュア」なる言葉が考え出されたが、SAJの教育本部のお偉いさんは、首をたてに振ることはなかった。私の見るところ、SAJの偉い人達は、そうした組織が生まれることで、自分達の影響力、言い換えれば、自分達の権威が薄れてしまうことを恐れたのであろう。

◆名誉総裁

 専任スキー教師協会設立が進められていた頃、SIAは決定的ともいえる奥の手を出して来た。名誉総裁に三笠宮殿下をかつぎだしてきたのである。杉山、黒岩がオーストリアに居た頃、ヨーロッパに留学していた殿下はスキーを愛好して、日本人スキーヤーと接触があった。その縁を生かして、担ぎ出しに成功したのである。
今なほ、皇室は、日本人にとって、アンタッチャブルの世界である。三笠宮殿下を名誉総裁とするSIAに、SAJは、何もアクションを起こせない状況が生まれている。

◆スキー界の英智を集めての解決策が求められている

  日本のスキー教師認定の不可解な状況は、今、まったく身動きのとれない状況にある。最近の5〜6年の間に、1968年のSIA発足当時の組織の主要メンバーが、その名簿から消えている。杉山の片腕であった黒岩達介、草創期の主要メンバーだった園部勝、井上恵造、藤島幸造らがそれである。年齢的にもうスキー教師として働けないと言うのが理由であれば、それはそれとしてうなづけるのだが、さて果たして、そうした理由は考えにくい。彼らは、いつの間にかSAJ傘下に戻っているのである。
何が起きていたのか、ひとつの情報がある。コクド系のスキー場、ホテルでスキー学校を経営するものは、SAJの会員でなくてはならないとする、堤義明会長からのお達しに従ったというのである。
彼らは生活のために転向を選んだのであろうか。別のうわさがささやかれている。「杉山の独断専行についていけなくなったから」「何から何までSAJとぶつかり合う緊張に疲れたから」と言ったものだが、さて、日本のスキー界の混迷した状況は、いつどうゆう形で解決されるのだろうか。スキー界の英智を集めての解決策が求められている。


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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