【連載48】猪谷千春 ”日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト” Shiga Zin
苗場プリンスホテルの8階の部屋から技術選を観戦中 |
◆志賀さんのもうひとつの専門分野であるアルペン競技
ベッドの中で朝刊を見ていたら週刊朝日の広告の中に、昭和からの遺言I猪谷千春という見出しがあった。
私は、すぐにウチのオクサンに週刊朝日6月13日号を買ってきてくれと頼んだ。その瞬間に私の新連載の第1回目のテーマは決まった。
今続けている連載の45,46,47の原稿を渡す時、山田SAJ理事と上田SAJ広報に「この辺りで志賀さんのもうひとつの専門分野のアルペン競技について書いてくれませんか」と要請された。
「いいよ」と気軽に引受けたが、さてどこから書こうか迷っていた。突然日本に立ち寄ったコルチナ三冠王トニー・ザイラーの石打でのスキーか、キリー、シュランツの時代かと考えているところに週刊朝日の広告に出会ったのである。私の構想は一気に固まった。
「よし!!1回目は千春さんだ」
週刊朝日に載った猪谷千春さんに関するレポート。 ヨーロッパ、アメリカ、カナダにしかメダリストはいない。 東洋系のたったひとりのメダリスト。 1956年コルチナ・オリンピックの銀メダル(金メダルはトニー・ザイラー) そして1958年バドガスタイン・世界選手権大会の銅メダル (金メダルはヨセフ・リーダー)の輝かしい戦歴を持つ彼が 「二度とスキーはやりたくない」と語ったと言うのは意外であった(志賀Zin) 週刊朝日2008年6月13日号「昭和からの遺言 猪谷千春」 撮影村上宗一郎 |
◆私は千春さんとは同世代
私は、かつて若い頃の猪谷千春選手を良く知っていた。そしてお父さんの六合雄(クニオ)さん、お母さんの定(サダ)さんとも親しくお付き合いしていただいた。
1952年オスロオリンピックの11位、1956年のコルチナオリンピックのトニー・ザイラー1位、猪谷千春2位のレースを伝えるヨーロッパからの短波の国際ラジオ中継も丸池でご両親と一緒に聞いた。
週間朝日の記事の冒頭に次の様な文章が載っている。「私は、生まれ変わってもスキーの選手に再びなりたい、とは思わないんです。コルチナ・ダンペッツオのオリンピック1956年イタリアでメダルをとることができたのは、幸せなことでした。表彰式で夜空に揚がった日の丸は、とても美しかった。でも、そこにたどり着くためには多くのつらい経験もしましたし、犠牲も払いました」と語っている。
私は千春さんとは同世代(猪谷さん1931年5月生まれ、私は1932年3月生まれ)子供の頃から天才少年猪谷千春を見守ってきた世代である。
◆毎日の生活の全てがトレーニングであった
戦争、敗戦のきびしい環境の中で日本人は苦しめられていたのだが、猪谷さん一家はその中で更に苦しい生活を過ごしていた。両親はそうした劣悪な状況の中でも「千春を世界一のアルペンレーサーに育て上げる」として、千春少年に過酷なトレーニングを課していた。
毎日の生活の全てがトレーニングであった。そうした一家の生活は、父、六合雄さんの名著「雪に生きる」に詳細に記録されている。
ここに一枚、父親の撮った千春少年の写真がある。乗鞍の小さな山小屋で生活していた頃(1940年、9才)千春少年はこの一本杉の丸太を渡る以外に家に入ることを許されなかった。バランスのトレーニングとして六合雄さんが課した日課であった。杉の丸太はどちら側も固定されていず、千春少年はグラグラする丸太をバランスをとりながら渡って自分の家に出入りしていたのである。
父、猪谷六合雄さんの写真で伝えられる千春少年のトレーニング。 家の入り口につけられた杉の丸太を渡る千春少年(志賀Zin) |
◆「千春ちゃん6秒だよ」…「チェッ残念」
猪谷少年の力が最初に確認されたのは、1943年の日光での神宮大会(今の全日本)であった。前走者として滑ることが許された11才の少年は、そのコースを見事に走り抜けた。大会関係者から「千春ちゃん6秒だよ」と告げられた時、猪谷少年は「チェッ残念」とつぶやいたと言う。
その言葉の意味についていろいろな憶測が流れていた。2つの見方が体勢を占めていた。そのひとつは、負けたと勘違いをして、チェッとつぶやいたというもの。もうひとつは6秒しか離せなかったと口惜しがった、というもの。
私は今でも、後者の見方を採る。少年ながら自分の滑りに絶対の自信を持っていたのである。その日以来千春ちゃんは日本中のスキーヤーのアイドルとなった。
その当時日本のアルペン競技界のトップにあった若尾金之丞、片桐匡、橋本茂生といった名手たちも猪谷少年の技法、六合雄さんの理論を研究しなければならなかった。
千春少年の技術は極めて特異なものであった。極端に深い前傾、そして外向傾、外スキー内エッジに乗り切る技法。人間のする動作の極限にそれはあった。猪谷六合雄さんの写真はそれを示していた。
◆えっ何で今頃、日本に居るのか?
苦しい戦争が終わり、1946年戦後初めての全日本選手権大会が野沢温泉で開かれた。その大会に16才となっていた猪谷少年の出場が認められた。少年はその大会で抜群の強さを見せ、回転、新複合(現在でいう滑降・回転のコンビネーション)の2種目を制した。
そして1951年の戦後初めて冬期オリンピックに出場する選手選考会となった全日本選手権大会に優勝。1952年冬期オリンピックの代表選手となった。少年は東京の私学の高校生(大泉学園高校)であった。1952年オスロ(ノルウェイ)の冬期オリンピックは、戦後初めて日本チームの出場が認められたオリンピックであった。猪谷少年は旭鉄(北海道)の水上久さんと2人で世界のアルペン競技界に挑戦することになった。
オリンピック出場が決まっていた1951年の冬が近づいていたある日、少年はその当時お世話になっていた、銀座スポーツ用品店ミズノスポーツの支配人田島一男さんの店を訪ねた。そこに運命的な出会いがあった。
「この少年がオスロオリンピックに出場する猪谷千春です」とその店に来ていたひとりのアメリカ人に少年を紹介したのである。「えっ何で今頃、日本に居るのか、世界の強豪たちは、もうヨーロッパで練習しているぞ」そう語ったアメリカ人は、C・V・スターさんと呼ぶ、アメリカAIU保険の創業者であり、世界中の経済的に恵まれていない若い才能を援助をしていた人だったのである。「何をグズグズしているのか。明日にでも日本を発ってヨーロッパに行きなさい。」
◆東洋の黒い猫”という仇名がつけられた
スターさんは、その日のうちに2人のヨーロッパ行きの航空券を用意し、サン・アントン オーストリアでの練習の環境を整えてくれた。
サン・アントンで練習に入った猪谷少年のスキーに村の人々、アメリカ人のスキー客が興奮していた。練習する旗門のそばに人垣ができた。誰言うとはなしに“東洋の黒い猫”という仇名がつけられた。
その噂を聞きつけて、となり村のサン・クリストフにあるブンデスハイム(国立スキー学校)の校長ステファン・クルッケンハウザー教授が何人かの助手をつれて猪谷少年の滑りを観察し、フィルムに撮し止めた。そこから1955年のオーストリアスキー教程が作られた。(その詳細については連載の第15回に書いた)
オスロでも猪谷少年への関心はかなり高いものであった。当時世界の頂点に立っていたのはノルウェーの英雄スタイン・エリクセン、オーストリアのオテマール・シュナイダー、クリスチャン・プラウダ、イタリアのツェノ・コロだった。
猪谷少年は世界の強豪に果敢な挑戦を仕かけ11位となった。少年にとってその順位は全く納得できるものではなかった。「よし、この次は」の思いが燃えていたはずである。
春の残雪に鋭い弧を描く猪谷千春少年。 この技術が、オーストリアのクルッケンハウザー教授の目にとまり分析されて 1955年、オーストリアスキー教程として発表された(志賀Zin) (猪谷六合雄 写真集より) |
◆アメリカのアイドル、チック・イガヤ
帰国して、挨拶回りでC・V・スターさんを訪れた時、スターさんは「次のオリンピックをねらうならアメリカの大学に入り練習を続けたらどうか」と新しい提案をした。
千春少年はこの招待を受けて、アメリカ東部の名門校ダートマス大学に進学した。父六合雄さんは「将来世界で活躍するためには英語がしゃべれなければダメだ」として千春少年に英語を学ばせていた。アメリカの大学での生活にその素養が役立った。
次の1956年コルチナオリンピック(イタリア)に向けてきびしいトレーニングが続けられた。猪谷少年が練習をするストースキー場は、にわかにアメリカ、ヨーロッパのトップレーサーが集まり、また、アメリカのスキーファンが集合した。誰もが猪谷のスキーを自らの目で見ておきたいという思いに押されていた。
オーストリアのスラロームのエース、トニー・スピースもその中にいた。トニー・スピースは、ヨーロッパで注目されていたスラロームの名手であり、C・V・スターさんの援助でアメリカに渡っていた若者だった。しかし彼は言葉の壁を超えられず帰国してしまった。
アメリカでの猪谷少年の戦歴は素晴らしい。全米選手権、全米学生選手権に連戦連勝。アメリカからヨーロッパに渡ってのビッグレースにも常に上位を占めて、チック・イガヤはアメリカスキー界の最大のスターになっていた。アメリカ人は熱狂していた。猪谷は日本の猪谷ではなく、アメリカのアイドル、チック・イガヤとなっていた。
アメリカ最大の週刊誌ニューズウィークの表紙をかざり、最大のグラフ雑誌、ライフに特集が組まれた。
◆日の丸って美しいですね
1956年イタリアのコルチナ・ダンペッツオオリンピックの出場権をかけた1955年の志賀高原での全日本スキー選手権大会に勝ち、2回目のオリンピック出場を決めた。
アメリカに渡る直前まで志賀高原で一緒に練習していた杉山進(長野電鉄)が全日本、国体のタイトルを5つ獲得して代表となった。
コルチナオリンピックチームの監督には日本のアルペンの先導者と言える野崎彊さんが就いた。
美しくきびしい岩峰に囲まれた雪の舞台に激闘が展開された。チック・イガヤは、その大会のスラロームでオーストリアのエース、トニー・ザイラー、ヨセフ・リーダーと激しくトップを争い、2位となった。
その日の夜、行われた表彰式で、暗い夜空に上がる日の丸に「日の丸って美しいですね」と野崎につぶやいた。
ヨーロッパ人種以外で初めて誕生したメダリストであり、日本人で今尚、それに続くレーサーを生み出すことのないシルバーメダルであった。
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昭和31年 コルチナ・オリンピックで銀メダルを獲得した滑り 猪谷千春 |
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連載「世界のアルペンレーサー」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
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連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]
連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)
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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。