【連載32】インタースキーの存在意義を問う Shiga Zin
※連載32は、連載29からの続きとなります
第44回技術選手権大会 表彰式会場にて 嶺村選手(左)、志賀さん(中)、中田選手(右) |
◆韓国インタースキーに参加した日本チームは何を見せ、何を語り、何を得たのか
前回(31話)、前々回(30話)と、編集者の強い要請によって私の私的な生活、行動におつき合いいただくことになったが、今回からは又元に戻して日本のスキー、世界のスキーについて書いてみたい。
2007年の冬、もっとも注目されるスキーの行事は、隣の国、韓国のピョンチャン郡ヨンピョンスキー場で開催された第18回インタースキーであろうと前回書いた。
そのヨンピョンはどんな大会だったのか、そして参加した日本チームは何を見せ、何を語り、何を得たのか。
ヨーロッパから帰国して、多くの人たちに会い、多くの関係者の言葉を聞こうと試みたのだが、その誰からも、ヨンピョンでの様子を聞かせてもらうことは出来なかった。
第18回大会の総責任者であった平川仁彦さんと約1時間かけて話し合ったのだが、何かに遠慮しているのか、明確に語ってもらえなかったのである。
私は、何となく、インタースキー運動の終焉を感じていた。
◆改めて検証をしてみたい
私はここで改めて、(1)インタースキーとは何だったのか(2)インタースキーの歴史と今。そして(3)改めてインタースキーの56年間は、世界のスキーに何をもたらし、世界のスキーをどう変えて来たか、そして今、改めて(4)インタースキーは将来に向けて、どうあったらいいのか。といった検証をしてみたい。世界のスキー アスペンからの報告書 (1968 年発刊) |
私は、1968年アスペンの第8回インタースキーに参加、大きなレポートを毎日新聞の週刊誌 毎日グラフに発表、それを土台にして「世界のスキー」アスペンからの報告書とする単行本を当時の冬樹社(現在のスキージャーナル社)から発刊している。その本が、その当時、スキー界の法王と呼ばれていたオーストリアのクルッケンハウザー教授に絶賛され、世界のスキー国のスキー教師養成コースの教科書となった。ということは、何回か前に書いた。しかし、その私の本は日本では発売禁止ともいえるSAJの横ヤリで、日本人の目に触れることはなかった。私は、「世界のスキー」を書いた1968年のアスペン第8回インタースキーから、1995年の野沢第15回インタースキーまでの8大会全てのインタースキーに参加、スキージャーナリストとしての取材とスキー研究家としての検証を行ってきたのだが、「インタースキーはもう終わった」とする意識のためにそれ以降のインタースキーは見ていない。
私は、2007年の第18回を前に、2003年10月号のスキージャーナル誌に、「いま、あらためてインタースキーの存在意義を問う」というレポートを送っている。それは、かなりの長文だが、今、もう一度読み返して欲しいと、この頁を借りて全文を掲載したい。
■いま、あらためてインタースキーの存在意義を問う スキージャーナル誌2003年10月号
スキージャーナル2003年10月号 |
◆セスト・インタースキー 注目を集めていた日本のスキー
「セストってどこ?」。私は多くのイタリアのジャーナリスト、そしてスキー関係者に聞いた。そしてドイツで毎年発刊される巨大なスキー場のガイドブックを見て、ドロミテ山脈の中にあるスキー場を探した。しかし、みつけることは出来なかった。
インスブルックを発ち、ブレンナー峠を越えてブリクセンに差し掛かる頃、「そうだ、コルチナの途中にあるドビャアッコに行けば誰か知っている人がいるはず」と思い、アウトバーンを外れて山岳道路に入った。ドビャアッコのレストランに入って昼食をとる時、そこの主人に聞いた。「セストというスキー場はどこ?」。そして、ようやくその村が、そこからオーストリアに通じる道の途中にあることがわかった。主人は「あんなところに何をしに行くんだ。製材所があるだけの小さな駅だぞ」と告げた。
小さな駅まで行って見渡すと、やっと絵葉書位の大きさの小さな案内板があった。第12回インタースキーと書かれた矢印が南を指していた。
ドロミテの小さな町、セストで開かれた第12回のインタースキーは、前回までのどの会場とも違うムードで開会式が始まった。お祭り好きのイタリアで行われるどんな行事でも、その村の楽隊が賑やかに先導してイベントは始まる。ところがその常識が覆された。何の音もない(レコード、テープからの音楽もない)静寂の中で、世界各国のチームがただ黙々と雪を踏みしめた。「この会議をお祭りではなく、学術的な会合にしたい」と語ったフィンク教授の意志が感じとれた。しかし、その夜から始まったミーティング、そして次の日から始まった各国のデモンストレーションは、イタリア側の思惑とは違って、従来のインタースキーのムードで進行していた。
いま、あらためてインタースキーの存在意義を問う (スキージャーナル2003.10月号) |
スイスチームはデモの先頭に滑降の王者、ベルンハルト・ルッシを滑らせ、ドイツはゴールデン・ロジと呼ばれるスーパースター、ロジ・ミッターマイヤーとその夫、スラロームの名手、クリスチャン・ノイロイターのふたりをチームに加えて、華やかなデモンストレーションを展開して見せた。
地味な学術的な会合にしたいと主張していた地元イタリアも、デモンストレーションに英雄グスタボ・トニエ、ピエロ・グロス、そしてイタリアの名花と謳われたクラウディア・ジョルダーニら、世界のトップに君臨した名手を揃えて、前衛的な技法を披露したのである。
何か冷めた空気があった。「もうインタースキーは終わりだよ。ここから持ち帰るものは何もない」。そう語る人々がいた。
盛り上がらない第12回インタースキーで注目されていたのは、日本の発表だった。1965年、第7回バドガシュタイン会議以来、公式参加している東洋のスキー国は、1971年ガルミッシュ・パルテンキルヘンでデモンストレーターたちの技術の高さを驚嘆され、1979年、東洋の雪の上で初めてインタースキーを開催し、成功させて関心が高まっていたことで、大会前から「日本が新しい指導理論を発表する」という情報が流れていたからである。
レクチャー会場は満員になり、バーンの周りは人で埋め尽くされた。「エコロジカル・スキーメソッド」と題する講演の前に、インタースキー会長、クルッケンハウザー教授が日本のスキーを紹介し、デモンストレーション会場ではホピヒラー教授、フィンク教授のふたりが日本の演技を説明してくれた。
「人間的というのはどういうことなのか」という哲学的な問いかけから始まる論文は、かなり難解なものであった。そして、ペダルプッシングと称する動作を主体としたデモンストレーションは、さらに人々を困惑させていった。
バーンを囲んでいた人々がひとり去り、ふたり消えて、いつの間にかまばらな囲みになっていた。
「日本人の言っていることはまったくわからない」。
「あんな指導法からいったいどんなスキーヤーが生まれるのか」。
日本の理論はヨーロッパ、アメリカの人々に理解されることはなかった。すっかり寂しくなった会場から帰ってきて、クルッケンハウザー教授は「こうした前衛的な理論というものは、その発表の時にはたいてい批判されるものだ。少なくても理解されるのに10年の歳月が必要だろう」と日本の人々を慰めた。しかし、「奇をてらった意味のない発表」という評価があった一方で、「日本人の考え方のなかには、われわれヨーロッパの人種には気づかない何かがあるのかもしれない」とする東洋の神秘と解釈しようというとらえ方があったのも事実だった。日本のスキーへの評価は揺れていた。
1987年、第13回インタースキーはカナダのバンフ(マウント・ノーケイ)で開かれた。1968年、第8回アスペン会議以来、アメリカ大陸で2度目の開催であった。
前回のセストでフィンク教授が意図したインタースキーをアカデミックなものに戻そうという試みは、「インタースキーは世界のスキー関係者が集う親睦のためのお祭り」と考える開催国カナダの人々によってかき消され、蔵王に次いで華やかなムードに包まれた。
オーストリアと日本が注目された。オーストリアは、ホピヒラー教授が6年前に発表した「シュビンゲン」の論文がセストで十分理解されなかったと考えていたのだが、その論文をさらに進めて「シュチエーション・スキー」という主題で、講演とデモンストレーションを行って、各国の人々に高い支持を受けた。近代スキーの宗主国としての立場を認識させていた。
日本は、「ヴァリアブル・スキーイングについて」と題する講演を行い、セストで批判された主張を修正した。その新たな提案は、「形ばかりにこだわって運動の本質を見失っている」という日本のスキーに対する批判をかわす主張であり、前回「押して、押して、ずらして、ずらして」と演じて嘲笑をかったデモンストレーションも大きく修正され、「走るスキー、切れるスキー」に近づいた技法と評価されたのである。
1970年代、スキーはずれの少ない、より切れるターンを求める時代に入っていたのだが、日本もようやくわれわれと同じ土俵に戻ってきたと、ヨーロッパやアメリカのスキー界に認められたのである。
バンフに続く1991年、第14回インタースキーは、オーストリアのサンアントンで開かれることになった。その決定は、インタースキーをさらにお祭りにする流れを生み出していた。
いま、あらためてインタースキーの存在意義を問う (スキージャーナル2003.10月号) |
◆サンアントン・インタースキーは、スキー史上に残る壮大なお祭りとなった
オーストリア西部の山岳地帯アールベルグ峠の麓の村、サンアントンは世界有数のスキーリゾートである。この村を、人々はスキーの聖地と呼んでいる。
近代スキーの父と呼ばれるハンネス・シュナイダーは160年前、峠を越えた寒村スチューベンに生まれ、30歳になって世界で初めてスキー学校を開いたのが、サンアントンなのである。また、そのシュナイダーがイギリスの貴族サー・アーノルド・ランと語り合って、世界最初のアルペン競技会を開いたのも、この地であった。スキーにまつわる全ての出来事が、この村から始まっているのである。
1991年、この村はシュナイダー生誕100年、アールベルグ・スキークラブ90周年、スキー学校の70周年、さらに野沢温泉村との姉妹提携20周年が祝われる年となっていた。
そしてインタースキーも、この村の隣、ツールスで第1回が開かれてから40年となっていた。この年、この村はすべてのお祝い事を一挙に行う計画を進めていた。第14回インタースキーは、サンアントン村の大きなお祭りのアトラクションとして開催されたのである。
私は、このサンアントン・インタースキーの前、何度もインタースキー会長になったホピヒラー教授に会い、インタースキーについて話し合った。その話し合いの中で、教授が語った言葉が未だに心に残っている。
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お互いに顔を合わせてそれぞれの経験について意見を交換することは、進歩する上で重要なことだ。スキーの技術や指導法について関心を持つ人々が会って、話し合い、情報を交換し合うことによって、共通の理解を得、自分の考えを広げ、確信を深めることができる。
インタースキーは3つの部会(アマチュア部会、プロ部会、学校体育部会)に分かれているが、それぞれの部会でそれぞれが直面しているテーマについて話し合い、その報告を全体会議にかけ、さらに討議を重ねてスキー技法、スキー指導方法論に役立たせるため提言が行われる。そうした組織や運営方法が確立したのは、1979年、蔵王で行われた第11回のインタースキーだったのだ。
この経験を土台にして、1991年サンアントンはスキーというスポーツがより大きな前進を勝ち取るための新しい目標を見出す会議にしたい。今、スキーは大きな曲がり角に差し掛かっていると思う。ヨーロッパでは、若い人たちのスキー離れ、それに伴って起きている一般スキーヤーの高齢化、さらに環境問題という視点からも、深刻な問題に直面している。それらの問題に対しても、インタースキーは何らかの指針を提案しなければならない。
インタースキーは、スキーというスポーツの新しい流れを創り出すトレンドセッターの役目を負っている。
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スキーの故郷、サンアントンは、1991年1月12日から、いつにも増して華やかなムードに包まれていた。すべての参加国が集結を終えたこの日の夜、翌日の開会式会場となるバーンではロックバンドが演奏し、その後方の夜空には華やかな花火、そしてレーザー光線による光のショーが展開され、各国の参加者を驚かせた。また、次の日の開会式の入場行進は、村のメインストリート(といっても、この村は一本の道の周りに造られた村だが)をチロル地方の伝統衣装を身に着けたマーチングバンドに先導されて行進。第14回インタースキーは、華やかなスキーショーで始まった。サンアントンは、蔵王のムードをさらに上まわるお祭りになったのである。
1991年、サンアントン第14回インタースキーでは、21カ国がアルペンスキーのデモンストレーションを行い、7カ国がノルディックスキーのデモに参加した。それぞれの国は、その国を代表する名手たちを揃えて華麗なスキーショーを展開してみせたが、アルペンスキーでは、合理的なスキーをめざせば、そこには国境は存在しないということが強く印象づけられ、「世界のスキーはひとつ」とするこの会議が掲げてきた理想が、すでに実現していることを明らかにしていた。その共通の理解のうえに、さらなる進歩、さらなる前進を探るという仕事が、インタースキーに課せられたテーマとなったのである。
注目されたデモンストレーションは、主催国オーストリア、そしてスイス、イタリアであったが、日本の発表が高い関心を集め、その整然としたデモに「もっともインタースキーにふさわしい発表であった」とする高い評価が与えられた。日本のスキーは、セストで失った信頼を回復していた。
◆インタースキーが求めていたもの。それはサンアントンで変わった
1991年、サンアントンの第14回インタースキーは、インタースキーという場で、世界のスキーの流れが見えるとしてきた50年を大きく変える機会となった。
「次回からのインタースキーでは、環境問題を主要なテーマにしなければならない」。
インタースキー会長としてサンアントンを仕切るホピヒラー教授は、そう考えていた。1985年、夏から秋にかけて、ヨーロッパは大きな気象災害に見舞われていた。集中豪雨に見舞われた北イタリアに大きな被害が出た。イタリア北西部の深い谷、バルテリーナに鉄砲水が起き、ソンドリオからボルミオ・パッソ・ステルビオに通じる山岳道路が流された。また同じ頃、オーストリアのチロル地方の有名なふたつの谷、チラタール、エッツタールも、洪水によって崩れ落ちた。
災害に見舞われたそれぞれの谷には、共通する条件があった。深い谷の奥に新しく開発された巨大なスキーリゾートが生まれていたのである。イタリアでは、1985年のアルペン競技の世界選手権大会を開催した巨大な人工雪施設を持つボルミオ、オーストリアでは標高2400メートルを超える氷河に造られたヒンタートックス、ホッホグーグルの新しいスキー場の開発であった。
巨大スキーリゾートの開発と自然災害の関係が、インタースキーのテーマとして上がってくる。そうした動きの中で、ホピヒラー教授は、「次のインタースキーは自然環境とスキーがテーマになるだろう」と語っていた。しかし、開催年が近づくにつれて、環境問題を掘り下げていくと「スキーはやめろ」といった主張が出てくるという危惧が囁かれるようになり、会議のスポンサー探しがむずかしくなっていったのある。
開会を残り3ヶ月に控えたある日、教授はサンアントン・インタースキーのサブタイトルを「インタースキー・エクスポ」とすることになったと語った。スキーメーカー、スキー観光地の宣伝にスペースを確保し、積極的に観光誘致の動きを認めたのである。
インタースキーは、1991年、サンアントンで一気に盛大なお祭りとなった。バーンの横には、スキーメーカーのテントが並び、村のホテルのロビーは、無料で酒を飲むスキー教師で賑わっていた。
村の中心のホテル、ホテル・サンアントンの表通りに面したバルコニーで太鼓を打ち鳴らし、日本酒を振舞っていた野沢温泉が、次の1995年、第15回のインタースキーの開催地に決まった。
私は、このサンアントン・インタースキーに提出されたドイツのふたつの論文に注目した。環境問題を第14回インタースキーのメインテーマとすることをためらった主催国オーストリアのムードを押し切って、ドイツ、スイス、カナダなどから自然環境保護を訴えるスペシャリストが参加していた。
そのシンポジウムの基調講演をしたのは、国際スキー指導者連盟(IVSI)の会長を務めるドイツ山岳連盟事務局長のアルフレッド・ジーケルドであり、もっとも注目されたパネラーは、エルヴィン・ラウターバッサーであった。アーリーの愛称呼ばれるジーゲルドは、日本のスキー関係者とも親交を持つ親日家として知られる人物だが、彼はヨーロッパでは知らない人のいない有名人なのである。
ドイツの南西部、オーストリア、スイス、フランスと国境を接する山岳地帯に、シュバルツバルトと呼ばれる地域がある。黒い森と呼ばれるその地域は、ヨーロッパの人々にとってもっとも心の癒される空間として人気が高い地域なのだが、そのシュバルツバルドの営林局長時代に「黒い森が枯れる」というメッセージを発して、酸性雨による被害を世界に訴えた最初の人として、またその酸性雨発生のメカニズムを解明した森林学者として知名度の高い人物なのである。(2007年の今、シュバルツバルトは多くの木々が枯れて森が消えかけている)
スキーと環境、それはスキー関係者にとって触れたくないテーマであった。しかしサンアントンでは、環境問題を正面から見据えたシンポジウムに多くの人々が関心を持った。
白熱した討議が交わされ、サンアントン第14回インタースキーの総会決議として、「スキースポーツと自然・環境保全に関する決議」と題する決議が、インタースキー参加の29カ国の全員が賛成するという同意を得て、第14回インタースキー宣言として発表された。私は、このメッセージが採択されたことで、サンアントン・インタースキーは、インタースキー史上、最大そして最高の会議であったと思っている。
サンアントンでの会議以降、インタースキーは1995年の野沢温泉、1999年にはノルウェーのバイトストーレンで開催されている。新しいインタースキーの姿を探ったバイトストーレン、そしてクラン・モンタナと歴史を積み重ねてきたインタースキーは、今後、世界のスキーの専門家、指導者にとってどのような場として機能すべきなのか。その答えを、これからの時代を担っていくすべての人に探ってもらいたいと切に願っている。
(了) (以上、スキージャーナル2003年10月号より転載)
いま、あらためてインタースキーの存在意義を問う (スキージャーナル2003.10月号) |
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サンアントンで開催された第14回会議を節目に、インタースキーは多くのスキーヤーに向けてスキーの魅力を訴えることに、その方向性をシフトしている。大きく変化する世界のスキー界の動向を受け、新たな姿を模索する会議となった野沢温泉、バイトストーレン、そしてスノースポーツの将来を模索する場として機能し始めたクラン・モンタナを経て、今後、インタースキーは何を発信していくのだろうか。2007年韓国・ヨンピョン会議を期待して待ちたい。
◆日本人のインタースキーへの参加人数
日本のスキー界とインタースキーの関わり方を検証するため、日本人の初参加以降の日本人のインタースキーへの参加人数を紹介しておきたい。
1955年 第3回バルジゼール大会 片桐 匡、橋本茂生 2名
1962年 第4回モンテ・ボンドーネ大会 柴田信一、中沢清、西山実幾、大熊勝朗 4名
1965年 第7回バドガスタイン大会 中川新、柴田信一、天野誠一
デモンストレーター 平沢文雄、丸山庄司、富沢英雄、斉藤城樹、北沢宏明
随行員 山本宇明男、丹内正一の計 10名
1968年 第8回アスペン大会 団長 南波初太郎 以下デモンストレーター 8名を含め 20名
その他私も含めて、プレス、随行員 18名で 計38名
1971年 第9回ガルミッシュ大会 団長 天野誠一以下デモンストレーター 8名を含め、
公式代表18名プラス随行 15名 計33名
1975年 第10回ビソケタトリ 団長 菅秀文以下 公式参加 39名 随行 41名 計80名
1979年 第11回蔵王大会 初めての日本開催とあって、代表団は大きく膨らみ、また日本を代表する
とあって、SAJは初めてSIAとの共同主催という形式をとり、全てが日本のスキー界の
総力を結集するという形になった。組織委員会会長 伴素彦、 実行委員会会長高島修
委員はSAJから6名、SIAから5名、そして、名誉団長としえ三笠宮寛仁親王、
団長は大熊勝朗となり、役員の総数は 120名となった。随行員を含めると、
蔵王の事務局に登録された人の数は 2400名という。
1983年 第12回セスト大会 団長 伴素彦 SAJ、SIAの役員、デモンストレーターを含め59名そして
プレスや、参観者は25名 計84名
1987年 第13回バンフ大会 団長 松浦益次郎 以下役員 60名、プレス 33名の 93名
1991年 第14回サンアントン 団長 和田晋太郎 副団長 天野誠一、青木巌 以下 役員 64名
代表団、プレスを含め 222名が参加。観客を入れるとほぼ 300人がインタースキーを
見たのである。
1995年 第15回野沢温泉大会 組織委員会会長 堤義明 実行委員会会長 久保田哲夫
代表団長 和田晋太郎 以下役員 61名。 デモ 67名。 視察団 99名。 計227名。
その他 SAJ, SIA, 日本スキー学会関係者 1100名。 プレス等関係者 1031名。
その他に協力参加者 328名。 開閉会式関係者 50名。 賛助出演者 47名。
以上を合計すると、日本人は 4083名がこの第15回大会に参加したことになる。
役員、関係者の数ではインタースキー史上最大となる。
更に海外からの参加者は、ID カード受給者 約2500名。
すべてを合計すると 6600名となる。 これも史上最大である。 観客総数 約4万人。
日本人のインタースキーについての関心は、第4回バルディゼールの大会以来伸び続けて、「競技スキーにオリンピック、世界選手権があるなら、基礎スキーにはインタースキーがある」とする、日本スキー界の常識は定着したことはこの数値からも読み取れるはずである。
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1965年、第7回バドガスタイン・インタースキーに参加した日本のデモンストレーターチーム 右から、丸山庄司、斉藤城樹、北沢宏明、宮沢英雄、平沢文雄 |
◆韓国ピョンチャン大会 マスコミはこの大会のことを全く扱わない
ところが、今回の第18回ピョンチャン大会に関して、極めて不可解なことが起きている。それは、参加した関係者の誰もが口を閉ざして何も語らないという事、さらに、従来のインタースキーでは日本スキーマスコミは大きなスペースを使って報道したはずなのに今回は日本のスキー界の2大マスコミといえるスキージャーナル、スキーグラフィックにこの大会のことが全く扱われていないという不思議である。
報告するものが何もなかったのだろうか。語るべき、ことが何も起きなかったのか。それともどこからか、強い締め付けがあって人々が口を閉ざしているのだろうか。
私は改めて、隣国に出向かなかった自分を責めている。そしてこうした日本のスキー界の対応は、韓国の人々に対して非礼であり、隣国の人々を悲しませているだろうことを思うのである。近い時期にその真相をさぐって報告したい。
以上
連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]
連載「世界のアルペンレーサー」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]
※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。