【連載43】日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか Shiga Zin



第45回技術選レセプションにて志賀さんを囲んで左から我満さん、森さん、右は菅秀文顧問

◆パンチョが来る!

 「パンチョが来る!!」その声に黒菱の急斜面は静まり、一瞬の間をおいて大歓声につつまれた。1968年の第4回デモンストレーター選考会の悪雪滑降と呼ばれた種目のバーンであった。
八方の春のくされ雪、それまで誰ひとり無事に滑り降りた者はいない。その急斜面を黒いシルエットが見事に切りさいて見せた。その驚異のスキー技法に黒菱の急斜面は沸き上った。日本人が初めて切りひらいた難斜面の技法であった。文句なしの最高点が提示され、“悪雪のパンチョ”の伝説が生まれた。

◆西山実幾さんが研究を続けていた

  そのパンチョ、佐藤勝俊の技法を解析するため、当時SAJの教育本部長であった西山実幾さんがパンチョの自宅である熊の湯に滞在して研究を続けていた。パンチョの庭ともいえる前山の急斜面に毎日、毎日、深いシュプールが刻まれていた。
屈膝平踏み先落とし、パンチョの深雪の技法を西山さんはそう分析した。そして、沈み込み、蹴り出し、という言葉が、パンチョの滑りに使われる様になった。
日本のスキー界に新しく沈み込み技法が加えられた。熊の湯に日本精鋭たちが集まっていた。北海道の藤本進は雪が消えてしまうまでパンチョを追い続けた。パンチョターンは日本の精鋭たちの技法に浸透していった。

◆第8回アスペン・インタースキーのもうひとつの事件

 パンチョ、佐藤勝俊はその年の第8回アスペン・インタースキーの代表に加えられ、アメリカに渡った。アスペン・インタースキーは、世界のスキー界の流れに大きな転機をもたらせた。
フランスとオーストリアの和解、私はこのインタースキーを合意のインタースキーと呼んだ。(このインタースキーに関して、私は多くのレポートに書いた。この連載でも何回か書いて来たのでここでは省略したい。)
ただこのインタースキーで書いておく必要のあったもうひとつの事件をここで改めて報告しておきたい。それはその年1968年頃から各国で従来のターン技法に加えて、新しい沈み込み技法の研究が進んでいたという事実である。
そのキッカケとなったのは1966年に発刊されたひとつの論文である。フランス、グルノーブル大学の教授であったジョルジュ・ジュベールが助手のジャン・バルネ(当時フランス・ナショナルチームにあって滑降の名手として知られていた。)との共同研究として発表された“フランスのスキー”には、極めて新鮮な技法としての沈み込み技法、アバルマンが紹介されている。グルノーブル大学の学生パトリック・リュセルは、その技法を武器にスラロームに勝利を積上げていた。


1966年発表された、グルノーブル大学の教授
ジョルジュ・ジュベールと フランスチームのエースであった
ジャン・バルネの共著”完璧なスキー”と題する論文
当時アルペン競技は、立ち上がり沈み込みの技法が
主流であったが、この論文は、 アバルマン技法と名付けた
沈み込み、抱え込み技法の優位を主張して、注目された。


その論文の中に紹介された彼らの実験に成果といえるグルノーブル大学の学生
パトリック・リュセルの迫力ある技法。彼はこの新しい技法でスラロームに驚異的な
勝利を積み上げた。

当時、世界の頂点にいた、アラン・ペンツ、カール・シュランツ、ジャン・クロード・キリー
のスラローム、彼らの技法はパトリック・リュセルの技法を消化した滑りになっている。

世界が新技法に注目していた。同じ時期に日本ではパンチョターンの研究が進められていたのである。
第8回アスペン・インタースキーで見られた沈み込み技法を紹介しよう。極端な沈み込みで注目されたのは、スイスであった。ターンに入る前に膝を深く折りたたんで、尻をスキーのテールに触れる程沈み込む、その技法にスイスはカンガルー・シュブングと名称をつけた。そのスイスの新技法に世界中の指導者たちは、「あれはいくら何でも行き過ぎだ」と嘲笑を浴びせたのである。
西ドイツ、イタリアからも沈み込み技法が発表されている。しかしながらその新技法の発表は、インタースキーの大きなテーマにはならなかった。第8回インタースキー最大の話題はオーストリア新教程の発表だったのである。


私のガルミッシュ・パルテンキルヘンの第9回インタースキーの
レポートを掲載した 毎日グラフの特別号「スキーへの招待72」


その別冊の中に収録されたオーストリアの沈み込み技法。

◆パンチョの技法を追い、オーストリアスキーの真意を追求することに熱中

私はその年1968年から数年間パンチョの技法を追い、サンクリストフでオーストリアスキーの真意を追求することに熱中していた。


熊の湯の前山の新雪を滑るパンチョターン、沈み込み、立ち上がりの様子が良く分かる。当時の高速分解カメラは1秒間に4枚程度しか撮影することしかできなかった。写真は4枚を合成したもので西山さんの研究の助けになったと思われる。屈膝平踏み、先落とし、と西山さんは解説したが、後に抱え込み、蹴り出し、といった解説も生まれた。
雪に埋まる深雪のパンチョ(志賀) 1968年10月1日「毎日グラフ」より

1969年暮から、1970年年明けまで、私は当時新設されたばかりの氷河のスキー場キッツシュタインホルンのブンデスハイムに校長バルトル・ノイマイヤーの招きで滞在していた。
雪が降れば二人で新雪の大斜面を滑り新しいニコンを駆使してバルトルの技術を撮りつづけた。その時、私はバルトルの技術に大きな変化を見た。バルトルは当時オーストリアスキー界の名デモンストレーターであった。 優美な立ち上がり、そして流れるようなターン、それはオーストリアの主張をそのまま伝える伝道師であった。そのバルトルが、キッツシュタインホルンの深雪で演じて見せたのは、深い沈みこみと強い蹴り出しの技法であった。オーストリアは新しい技法を開発した。私はそう強く感じて、毎日グラフの編集部に手紙を添えて多くの写真を送った。


私が1970年の10月に発表した新しいスキー技法を特集した 毎日グラフ。

「スキーのイージーライダー」と題名の扉、深い沈み込みが
当時の新しい技法の基本にあると主張している。

 グラフの編集部の小沢記者は、その写真を使って、「スキーのイージーライダー」という大特集を組んだ。当時アメリカ映画「イージーライダー」が人気を博していた。2人の若者が大型のオートバイを駆って旅行するという映画だが、そのオートバイに乗る姿がバルトルのスキーに重なっていた。

◆ZINを連れてサンクリストフへ来い

  ある日、キッツシュタインホルンのバルトルに、クルッケンハウザー教授から電話が入った。「ZINを連れてサンクリストフへ来い」というものだった。私とバルトルは次の日、サンクリストフにいた。折からサンクリストフではインターコース(国際スキー教師教育週間)とあって世界中のスキー国からスキー教師が集められていた。


ヴェーレンテクニック

その夜、ブンデスハイムでク教授が講演を行った。映画と写真を使った講義は世界のスキー教師たちを驚かせた。ク教授は「今、世界のスキー場に大きな変化が起きている。スキー人口の増加によってどこの国の斜面もコブで埋めつくされている。その斜面に適合する技術を私たちは探さなければならない」と語り、明日、その解答を見せると宣言したのである。
次の日、ブンデスハイムの横の斜面にそれまでキャンバスでかくされていた斜面が現れた。それは段々畠のような波の斜面であった。
その斜面をエディ・ハウワイス、バルトル・ノイマイヤー、ルッギー・シャラーといったオーストリアが誇る名デモンストレーターが滑り降りた。ヴェーレンテクニック(波の技術)の発表の日であった。

◆友人平沢文雄に下手な絵を混えて長文の手紙を書いた

  私は、その夜一睡もしないで、友人平沢文雄に下手な絵を混えて長文の手紙を書いた。
帰国してすぐ浦佐を訪ねた。そこで見たものは、サンクリストフで見た斜面と同じ段々畠の斜面であり、浦佐の名手たちがその斜面に挑む姿であった。平沢文雄が私の手紙を受け取ったと思われる日から何週間もたっていなかったのである。
浦佐から真っ直ぐにデモンストレーター選考会の行われる八方尾根を訪れた。そこでも私は驚くべき光景を見た。兎平の急斜面にヴェーレンテクニックを試す多くのスキーヤーを見た。そして私は多くのスキーヤーから質問を浴びせられた。「志賀さんヴェーレンテクニックとアバルマン技法とはどこが違うのですか」、といった質問が多かった。


私のガルミッシュ・パルテンキルヘンの第9回インタースキーの
レポートを掲載した 毎日グラフの特別号「スキーへの招待72」
その別冊の中に収録された日本のトップデモンストレーター、
平川仁彦(現SAJ教育本部長)と関健太郎のアバルマン技法、
この技法は当時世界の頂点にあったはずだが?……


八方尾根で開催された第6回デモンストレーター選考会では、急斜面ウェーデルン、悪雪滑降の2種目は沈み込み技法の競演となった。

◆第9回インタースキーは新技法のインタースキー

  1971年西ドイツの景勝地ガルミッシュ・パルテンキルヘンで第9回のインタースキーが開かれた。その第9回インタースキーは新技法のインタースキーと呼んでいい。参加21ヶ国のほとんどの国が新しい技法を発表している。
地元ドイツのシュロイダー・テクニック、オーストリアのヴェーレンテクニック、フランスのアバルマン、イタリアのセルペンティーナスプリント、日本からは曲進系と呼ばれる沈み込み技法。
まさに新技法競演のインタースキーであった。
日本が発表した曲進系技法は、あの熊の湯のパンチョこと佐藤勝俊の悪雪のターンの分析から生まれた技法である。
この第9回インタースキーで発表された各国の技法は、私の撮った分解写真でみていただくことにしたい。


私のガルミッシュ・パルテンキルヘンの第9回インタースキーの
レポートを掲載した 毎日グラフの特別号「スキーへの招待72」
その別冊の中に収録されたオーストリアの沈み込み技法。
その同じ特集の中に紹介された日本のトップデモンストレーター、
平川仁彦(元SAJ教育本部長)と関健太郎のアバルマン技法、
この技法は当時世界の頂点にあったはずだが?……

◆その難斜面をスムースに滑り降りる一団

  最終日、インタースキーの会長であったクルッケンハウザー教授の提案で、各国の技術を比較する行事が行われた。
ク教授の指示によって造られた斜面は凹凸の急斜面、そこに各国の代表デモンストレーターが挑戦した。ターフェルピステ(悪魔の斜面)と名付けられた斜面は、どの国のデモンストレーターにとっても困難なむずかしい激しい斜面であった。
各国から選ばれた名手たちがその難斜面に挑んでいった。誰もがその斜面に苦しみもがいていた。その難斜面をスムースに滑り降りる一団があった。日本のデモチームであった。
藤本進、平川仁彦、関健太郎、吉田智与志であった。彼らは他の国のデモンストレーターたちが苦しみもがいた斜面を楽しそうに滑っていた。ク教授はそのシーンを見つめて微笑んでいた。それは日本人のスキーの質の高さを世界に示したシーンであった。日本はこの日、世界の一流国の中に位置づけられたはずである。
1979年の第11回インタースキーの開催地に日本の蔵王が選ばれたのは、樹氷の魅力だけであったと私は思っていない。

◆曲進系技法は上級者の為の応用技術と位置付け

  高い評価を受けた日本チームは、凱旋といっていい高揚した気分で帰国した。しかし、その思いは一気に沈んでしまった。帰国したチームを待っていたのは西山理事の退任であり、新しく教育本部長になった管秀文さんの「日本のスキーを普遍的なものに戻す」とする考え方であった。
「SAJスキー教程」は改訂され、曲進系技法は上級者の為の応用技術と位置づけられた。今になっても私は思う。もしあのままあと4年も日本が曲進系と呼んだ技術を磨いていたら、日本は世界に誇る教程を持てたのではなかろうかと。
1972年冬季オリンピック札幌大会、1973年アルペンスキーのワールドカップ苗場大会。2年続けて日本は雪のビックイベントを開催した。日本の冬のスポーツの風土としての国際的な認知度は一挙に高まっていたのである。

◆世界のスキーは激動の時代を迎えていた

  この1970年代、オーストリアスキーが大きく動いた。新しいスキー教程が1971年に発表され、日本では次の年には福岡孝行さんによって日本語版が発行されている。


1971年発刊された新オーストリア・スキー教程
前年発表されたッヴェーレンテクニック(波の技術)が表紙に使われている

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オーストリアと時を同じくして1971年「SAJスキー教程」が改訂されている。菅教育本部長がいった「普遍的な教程に戻す」とした意味がはっきり読みとれた。日本の教程は1955年のオーストリア教程に逆戻りしたのである。
1973年には「SAJスキー教程」は全面的に改訂された。その教程を見て、クルッケンハウザー教授は苦笑するだけだったが、ホッピッヒラー教授は「日本は何故世界の進歩に気がつかないんだろう」といぶかった。
世界のスキーは激動の時代を迎えていた。
1968年グルノーブルオリンピックにフランスの新鋭、ジャン・クロード・キリーが三冠王となり、その技術を分析する作業が続き、パトリック・リュッセル、ジャンノエル・オージェの技術が話題を集め、1970年にはイタリアにグスタボ・トニエが出現、さらに1972年サッポロオリンピックにスペインの若者フェルナンデス・オチョアがゴールドメダルを奪い取るといった事件が続いていた。その誰もが自分の技術、自分の才能で栄光をつかみとっているのである。
世界中のスキー研究者が彼らの技術を追い、それぞれに新技法の解明に向けて動いていた。その激動の時代、日本は古いオーストリアスキーにこだわっていた。

◆蔵王は世界中のスキー指導者、研究者が集まるお祭りとして演出

  1975年チェコスロベキアのビソゲタトリで第10回のインタースキーが開催され、1979年日本の蔵王で第11回インタースキーが開催されている。
激動する世界のスキーの流れの中で蔵王はその方向を見出す機会となっていたはずだが、蔵王はインタースキーを「世界中のスキー指導者、研究者が集まるお祭り」として、第11回を演出していた。「競技の世界にオリンピック、世界選手権があるなら、一般スキーにはインタースキーがある」といった意識が、蔵王を大きなお祭りに変えてしまったのである。
私の宿泊していた蔵王のエコーホテルにイタリアの団長であったリチャード・フィンク教授が訪ねてきた。そしてかなり憤った様子で、「こんなのはインタースキーではない」と語り、次のイタリアのセストではインタースキーを元の姿に戻すと話して帰っていった。
オーストリアのホッピッヒラー教授も「こんなお祭りにわれわれは集まったのではない」と語っていた。

◆セストでの出来事

  1983年、第12回インタースキーはイタリアのドロミテ山群の中の小さな村セストで開催された。極めて静かな開会式でこの第12回インタースキーは開幕した。どんな小さな行事にも街のマーチングバンドの先導があるイタリアでの国際行事に全く音がなかったのに私はびっくりし、フィンク教授がいった、「インタースキーはお祭りではない」という意志を感じとった。しかし、蔵王でお祭りにしたムードは変えることができなかった。
この第12回日本チームに強い関心が寄せられていた。第9回ガルミッシュで見事なスキーを見せた日本に世界中が注目していた。そして、日本の論文発表にクルッケンハウザー教授が立ち会い、日本のスキー指導の雪の上の演技にポッピッヒラー教授が立ち会うという発表があったため、その関心は並みのものではなかったのである。
ク教授が立ち会った論文は、「いったい何を言いたいのか」といった批判が起き全く不評であった。
ホッピッヒラー教授が立ち会った雪上デモンストレーションはさらに無残なものとなった。日本のデモ達が演じたスキーは、押して押してズラしてズラしてといった全く時代おくれのもの、こんなスキーは現在のスキー技法からは考えられない技法であった。世界中のスキー指導者、スキー研究者から非難の声が上がり、日本のスキーの評価は一気に下落したのである。
「いったい日本は何を考えているのか」。それがセストのインタースキーの結論であった。
その日を境に日本は世界から見放される国となった。クルッケンハウザー教授は、あの論文は何を言っているのか全く判らないと語り、ホッピッヒラー教授は日本のあの指導法は全く間違っている。ペダルプッシュングという動きはスキーには全く無縁の動きだ、と酷評したのである。
そのセスト以降、世界のスキー指導者は誰一人も日本を訪れることはなくなった。
日本のスキー界は、セストの汚名をどう回復できるのか、50年のおくれをどう取り戻すことができるのか、それが今試されていると私は考える。

 


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
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連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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