【連載14】小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ Shiga Zin


※連載14は、連載10からの続きとなります。


連載をはじめてから、世界中からメールが。 情報伝達がすごいんだね

◆お前のレポート見たよ、とメールが


世界の友人からメールがくるんだよ

お前を写真で見たが、元気でいてうれしいって

小林平康

平川仁彦を引退に追い込んだ小林平康

サブちゃん

第23回大会を制した 急斜面ウェーデルン

ギャラリーの大歓声を浴びて

速さの時代の先頭を走る渡辺三郎

小林平康の最後の舞台となった第2回基礎選での応用総合滑降での渡部三郎のすべり。ギャラリーの視線を釘付けにした果敢で強く、正確なすべりは、まさに小林平康の後継者といえた

菅秀文大会委員長 ジャーナル誌で語る

トップ選手の演技にギャラリーも真剣

 この連載の10回目、日本の基礎スキー界が大きな変動にゆさぶられるキッカケが、当時のデモンストレーター選考会と呼ばれていた技術選手権大会(現在の呼称)に、「速さこそ美しい」とする小林平康が出現したことだったと書いた。
その記事を書き終えた後、数日間して私はヨーロッパに旅立った。ヨーロッパでクリスマス、正月を暮らして帰国、ヨーロッパに居る間に書いたレポートが、連載の11回、12回、13回となって皆さんの目に留まることになた。
ちょっと横路をそれた3回分が既に公開されているのを1月26日に見てびっくりしているのだが、それより早く、ヨーロッパ、アメリカの友人達から、「お前のレポート見たよ」とメールのあった事に更なる驚きを感じている。「日本語は全く判らないけど何枚かの写真でお前が元気でいることが判ってうれしい」そんなメールがとどくのである。
世界は小さくなった。情報の伝達がこれほどの進歩をしていると驚いているのである。この回から再び日本のスキー、特に基礎スキー、技術選手権の世界に視点を戻してみたい。前10回に続くレポートである。

◆「速いものは美しい」の小林平康の引退

 小林平康から渡部三郎へ。日本のスキーは早さ、切れが注視される世界へ移って行った。
現役のアルペンレーサー小林の参戦は、それまでの12年間のデモンストレーター選考会の世界を大きくゆさぶった。速さ、切れ、スキーに欠かせない要素が全ての人々の前に展示されたのである。
SAJが求め、SAJが理想として来たスキー、それに極限まで接近を果たし、SAJスキーの良き具現者となった名デモ、藤本進、平川仁彦、丸山隆文、吉田幸一、佐藤正人らが、築き上げて来た様式美の中にひたりきった日本のスキーの限界を小林は衝撃的な行為によって証明して見せたのである。
「速いものは美しい」、彼はその哲学でデモンストレーター選考会を滑り続け、1981年の第2回基礎スキー技術選を最後に、競い合う男の世界を去った。引退を決意したその第2回基礎スキー技術選で、「次に私の理想を追ってくれる若者たちが育ってきたことを実感できるようになりました」と語り、追って来た若者たちの成長を喜ぶ勇者であった。

◆小林平康の理想を追う新星は藤本一門から出てきた

  小林が「私の理想を追う若者たち」と期待した新星は、様式美のスキーにひたり切った藤本一門から出てきた。
第14回デモンストレーター選考会の制限滑降(2走1採のスラローム)に最後から2人目にスタートした無名の新人がそれまでのベテラン選手のタイムを抜きベストタイムを出した。渡部三郎、その名が記憶される最初の行為であった。
続く第15回には、同じ制限滑降に復帰した小林に迫るタイムで2位となり、次の第16回には、小林、佐藤正人につづく3位となって「ポールなら三郎は速い」とする評価を定着させていた。
制限滑降だけ速い藤本一門の新鋭は、その種目の1位を奪った第14回では総合56位、第15回は31位、そして最後のデモンストレーター選考会となった第16回では27位とわずかずつ順位をあげてはいたが、さして注目されるスキーヤーではなかった。
山形の寒村といえるあの「おしん」(古いか)のふる里に近い山村に生まれ、東北高校に進んでからスキー部に入りアルペン競技を目指した渡部は、高校総体、国体少年組などで活躍、高校卒業と同時に競技スキーを続けながら蔵王スキー学校に入って基礎スキーを学び始めた。その蔵王にあってもスピード、パワーに憧れ続けデモンストレーター選考会出場のチャンスを与えられても、美しいスキーより速いスキーへの姿勢を崩さない異端のスキーヤーだったのである。
デモンストレーターの草分けといえる岸英三、そして初期のデモンストレーターの中に光っていた佐藤俊彦、庄司照蔵という先輩たちに囲まれてなほ、速さを追った渡部三郎は、小林平康の後継者と呼ばれていい男であた。

◆藤本は「サブは近い将来、吉田、佐藤と並ぶエースになる」と

 渡部がにわかに注目されるようになったのは第1回基礎スキー技術選手権大会の時であった。彼のたったひとつの得意種目が廃止され、新しい6種目で争われることになったこの大会で、渡部は応用総合滑降と呼ばれた種目でスピードに乗ったスキーで先輩デモンストレーターの小林、佐藤正明、そして同僚の佐藤正人の3人の名手と同点首位に並んだのである。三郎はこの1種目だけの高得点で10位入賞を果たしたのである。
速いだけのスキーと見られていた渡部のスキーは蔵王の仲間と滑り、藤本の門下に入ることによって、そのするどさを失うことなく安定圏を拡げ、正確で美しいと言われる要素を加えて進化をとげていた。
師の藤本は「サブは近い将来、吉田、佐藤と並ぶエースになる」と語っていた。
1981年、第2回基礎スキー選手権大会はデモ選の聖地と見られていた八方尾根に戻って開催された。この基礎スキー選手権大会の見どころは、第1回の基礎スキー選手権大会を席巻した藤本厩舎の吉田、佐藤正人、石井らにデモンストレーター選考会時代から常に上位にあったベテラン佐藤正明、小林、山田らがどんな意地を見せ、どう巻き返すかにあったはず。そして藤本の指導で若者たちが、どう成長しているのかにも注目が集まっていた。その中でも渡部三郎の成長が焦点となっていたはずである。

◆渡部三郎は藤本厩舎の異端児ジャジャ馬

  その第2回基礎スキー技術選手権大会スタートナンバー177番をつけ赤いワンピースを着た三郎は、応用総合滑降に大会関係者、観衆を釘づけする、シーンを演出して見せた。
黒菱の大斜面をスタート直後のコブの急斜面を抜けた後、ほとんどの選手が良く整備された中央の中斜面で大半径のターンをつなぐのだが、渡部はその斜面を外して深くえぐられたコブの連続する急斜面にコースをとった。すべての人々の視線は、この三郎の無茶ともいえる行為にとまどい、そして一瞬停止した。
静まり返ってそのなり行きを見守る中で三郎は、果敢なしかも強く正確な技法で難度の高いくされ雪を切りさいて行く。
静まり返った斜面がわき上がった。その難斜面を過ぎゴール近くの中斜面に赤い閃光が走った時、この種目は渡部サブのものとなった。
大歓声の中で停止した渡部の顔は思い切って滑りきった満足感にあふれ、あの人なつこい笑顔が戻っていた。
「ほんとうにサブは目立つ男だなー」師の藤本がつぶやいた。チームメイトの佐藤正人が、「まいったなーこんなことされちゃーかなわないよ」と笑顔でサブの背中をたたいた。
ジャーナリストに囲まれた渡部は「もうあれっきゃないよってねらっていたんです。僕らが正明さんや平康さんと同じことをやったって勝ち目はないですからね。」渡部三郎はこの種目のトップとなって、この第2回基礎スキー技術選手権大会に総合5位となった。
三郎は当時、自分のスピードについてこう語っている。「自分の限界スピードを高めることを常に考えています。そうすればいいスキーがつかめると思うのです。若いうちはそれで押していきたい。小技は年をとってからでも間に合うから。」と。
徹底して様式美の美しく正確なスキー操作を目標に多くの名手たちを育て上げた藤本進の門下生でありながら、速いスキー、強いスキーにこだわる渡部三郎は藤本厩舎の異端児ジャジャ馬であった。
基礎スキーに速さと切れを持ち込んだ小林平康の後継者は、その対極にあった藤本門下から出現した鬼っ子渡部三郎であった。
渡部三郎は、77年初出場の第14回デモンストレーター選考会で56位、78年第15回に31位、79年第16回に27位、基礎スキー技術選手権となった80年に10位、81年第2回基礎スキー選手権大会に5位、82年第3回には3位、以後10位、6位、3位と上位を占めているのである。
「サブちゃんはいつかトップをとる」多くのファン達はそう願っていた。

◆すなわち基礎スキー技術の優劣だけを競う競技会

 デモ選が基礎選となった1979年から81年の時代、それが、何のためなのか、何が変わるのか、大きな戸惑いが生まれていた。 SAJの幹部の役員ですら、明確に答えることが出来なかったのである。 その施策を推し進めた、菅秀文大会委員長(教育本部長)が、スキージャーナル誌上で語っている。その一部を紹介しよう。
「デモ選の巨大化に伴い、その功罪も数多く現出してきた。当時とかく批判のあった採点の非公開も1972年、体操競技のように公開に踏み切り、関係者はもとよりギャラリーにも明快なものとなった。「日本のスキー教程」の正しい示範者としてのみ選考会にとどまる限り世界の技術の多様化と技術にいささかの積極性を欠くことになった。また選考会で優劣をつけることは自然発生的に順位を争う競技会的な性格になると同時に各方面から注目を受けスキーの指導者としてよりもプレーヤーとしてのスター作りの役割を果たすようになって来た。デモ選デモとかコマーシャリズムデモとしての戦いの場に変質して来たのである。ここで「日本スキー教程」の具現者として、またインタースキー派遣デモンストレーター等の指導員としての資質と切りはなして、純粋に基礎スキーの技能を競う選手権大会にすべきと割り切ったものが今度の大会である。すなわち基礎スキー技術の優劣だけを競う競技会であり、デモンストレーターは、「日本スキー教程」の正しい示範者であると同時に優れた指導者としての資質、技術、人格等を選考の基準として基礎選の成績を勘案しながら26名のデモンストレーターを選考したのである」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆基礎選は日本の冬のスポーツの注目を集める行事になった

  全日本基礎スキー選手権大会、そして全日本デモンストレーター選考会は、こう性格分けされて発足した。
この分離は、全く新しい世界を日本のスキー界に呼び込んだ。「あんなものはスキーじゃないぜ」「速い奴が強いそれがスポーツとしてのスキーだ」と信じ込んでいた多くのスキーフリークが、この大海への出場を目指して来たのである。
日本のスキーは、スポーツとしての新しい展開を見せるはずであった。道をひらいたのは、小林平康であり渡部三郎である。
日本のスキーマスコミは、この行事を大々的に報じ、基礎選は日本の冬のスポーツの注目を集める行事になった。
日本にスキーを扱う雑誌はいくつあるだろうか。私たちが知る、そして手に入れることが出来るものだけでも、5つの専門誌があり、それに準ずると言えるもの3誌、そして、かなりなマニアでなければ入手が難しいと言うものを上げれば10誌になるのではなかろうか。
1980年第1回基礎選は、それらのメディアにどの様に紹介されているだろうか。その当時の「スキージャーナル」が手元にあるので、それを分析してみよう。
巻頭のカラー頁が6頁、続くモノクロトーンのグラビア頁が38ページ、活版頁が12ページと、56頁をこの基礎選にさいているのである。ジャーナルがいかにこの大会を重視していたかがうかがえる。ちなみに同じ号で扱われている1980年レイクプラシッドオリンピックはわずかに10頁なのである。そして表紙も当然基礎選の勝者、吉田幸一となっている。
ジャーナルは編集部、写真部の総力をこの取材に当て、私の様なフリーのジャーナリストもかかえての大集団であった。
他のスキーグラフィック、山渓スキーヤー、実日スキーも、かなりな人数を大和ルスツに送り込み、ムービー・ビデオ製作のフエダプロ、フクハラフィルムのスタッフも加えると100人近いジャーナリストが、ピステを囲んだのである。
デモンストレーター選考会の16年、そして17年目から始まった基礎スキー選手権大会、それは、日本の冬のスポーツの主役となった。
基礎上位者の分解写真が大きく扱われ、上位者のひとりひとりの技術について、解説がつけられている。それを見、読めば彼らの技術は自分の技術とどこが違うのか、うまいスキーとは、どんなものか、そうした事が素人にも判ったような気分にさせてくれたはず。スキー場のあちことで、「このシュテムは幸一さんのシュテム」「あいつの滑りは正人さんを真似してるんだ」という風景がみられるようになった。
基礎スキー選手権の各種目の上位者は日本の雪の上のスーパースターとなった。

 

 

 

 

 

 

 


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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