【連載13】ヨーロッパスキー事情  Shiga Zin


※連載13は、独立となります


ホッホグーグルでスキーを楽しむ

◆ヨーロッパの中央部は暖冬

 この冬、ヨーロッパ北部、スウェーデン、フィンランド、アメリカ北東部などに未曾有の寒波、強風が襲い、大きな被害が報道されている。そして、あの大津波、地球はどこか狂っている。
ところが、ヨーロッパの中央部、ドイツ、オーストリア、スイス、フランスといった国々は、どういう訳かおだやかな暖冬なのだ。スキーヤーにとって、この暖冬はつらい。スキー場に雪がないのだ。1月23日夜、オーストリアの友人から、今年のハーネンカムレース(キッツビューエルで行われる、ヨーロッパで最高の人気を誇るクラシックレース)がコースに雪がないため、滑降は中止、スラロームだけが行われる。と伝えて来た。実際には滑降中止でスーパーGが行われ、スラロームは、シュラドミングで代替開催された。
滑降コースには、人工降雪機が備えられていて、気温さえ下がれば雪をはりつけることは可能なのだが、暖かすぎて雪にならないということなのである。

ホッホグーグルスキー場にて

アンゲラルアルム ホテル

◆3000メートルを越える高さに人工降雪機

 私の長いヨーロッパ取材の経験でも、今シーズンほど暖かい冬はなかった。37年間、クリスマスから正月を過ごす、ホッホグーグルという標高2000メートルを越える氷河の上のスキー場でさえ、3000メートルを越える高さに人工降雪機を持ち上げて雪を作る作業が行われていた。
異常気象と簡単に言ってしまえば、そうした地球の異変は片付くのだろうか。今、スキーと言うスポーツにはかなり深刻な危機が訪れているのではないか、と私は考えている。
長い37年間、お世話になっている、アンゲラルアルムというホテルのテレビでドイツの科学者が、あと10年もすればヨーロッパではスキーができなくなると語っていた。何枚かの写真でその様子をお伝えしよう。

(1)は、私たちの泊まっているホテルアンゲラルアルム周辺の道路は完全に乾いている。普段の年だとこの季節は、道路の周辺は2メートルぐらいの雪の壁ができているはず、それが夏の路の様に乾き、路のまわりの雪はわずか5〜6センチしかなく、雑草が見えているのである。

(1)乾いた道路

(1)路の周りの雪も少ないです

(2)かっての夏の間だけイタリアへ抜ける道路にあった国境の検問所後、今はイタリア側には行けない様になっているが、そのイタリア側は全く除雪していないため、今シーズン初めからの雪が残っている。それは、わずか5センチ程度である。

(2)検問所後

(2)今シーズンからの雪が5センチ程度

(3)スキー場の中で活動している人工降雪機、このあたりは標高2500メートルぐらい。
(4)標高3080メートルのリフト山頂の人工降雪機。夜間ここからの急斜面に雪を降らせている。朝早く行くと新雪が楽しめるのである。

(3)標高2500メートルで降雪機が活躍?

(4)山頂の人工降雪機

◆春のサンアントンの様なもの

 私たち夫婦がここに居たのは23日間、その間に雪の降った夜は2回、昼間の雪はわずか1回だけ、その量は、せいぜい5センチか多くて10センチ程度。ちょっと日が当たれば消えてしまう量であった。
10年ほど前は、ここは厳寒地。クリスマスや正月は、外へ出ると気温はマイナス20度は当たり前だったのが、今シーズンはマイナスになる日は少なく、子供たちが外の寒暖計見てさわいでいた日が一日あっただけ。太陽の当たる昼間はホテルの外の気温はプラス10度、15度と上がるのである。
ひる時、ホテルの外のテラスには半そでのTシャツ姿のオジサン達がワインやビールを飲んではしゃいでいた。ムードは春のサンアントンの様なもの。
標高2000メートルから3000メートルを越えるホッホグーグルで、そうした風景なのだから標高1500メートルぐらいのスキー場は全滅である。
キッツビューエル、ヨーロッパの冬の社交場と呼ばれた街も、スキーができないとなればカンコドリの鳴く街になってしまう。

◆見るスポーツとしてのジャンプ競技は盛ん

 そうした雪の降らなくなったヨーロッパでジャンプ競技だけは盛んである。1月中にすでにWカップ17戦を消化しているのである。
私は、ホッホグーグールのホテルで、年末年始の恒例の4つのジャンプ大会をテレビで観戦した。フィンランドの英雄アホーネンの美しい飛行、日本チームの伊藤大貴の大ジャンプ、見るスポーツとして完成されたスポーツだと思う。
毎年12月29日は、ドイツのオーベルスターフェン、1月1日ガルミッシュ・パルテンキルヘン、1月3日オーストリアのインスブルック、1月6日ビショップホーヘンとスケジュールされているこの4つの恒例のジャンプ大会は、どこも大観衆に囲まれて、行われていた。
そのTV映像を見ていると多くの観衆が映し出される。そこにはひとかけらの雪を見ることはなく、人々は泥の上に長靴をはいて立っているのである。
ジャンプ台に雪をはりつける、それは、製氷機で作られた氷を張り、車に積んで運んで来た奥地の雪をかぶせることで、競技の舞台は作ることができると言うことなのだ。
インスブルックのジャンプ台は、古い街に向けて飛行するような位置に作られているのだがテレビの映像が、ジャンパーの飛ぶ後ろ姿を映すとインスブルックの街には白い屋根が全くないことが判る。ジャンプ台を囲む大観衆は、するスポーツとしてのスキーをあきらめ、見るスポーツとして、ジャンプ競技を楽しんでいるのである。

暖かい天候が続きました

オーストリア 中央は氷河

◆私のヨーロッパにおける実家

 私のいるホッホグーグルは、インスブルックから1時間半ほどかかる、深い谷エッツタールのいちばん奥のスキー場だが40年程前はチェアリフト一本の小さなスキー場で、春、雪が消えた4月5月にオーストリアのナショナルチームがここで合宿することで知られたスキー場であった。1966年南米チリのポルティヨ世界選手権大会に惨敗したオーストリアがチーム再建のために強化の責任者に指名された、フランツ・ホッピヒラー教授の発想で、そこが選ばれたのである。
それがキッカケとなって春おそくスキーができる場所として一般の人々に知れ渡り、人気を得て年々スキー場は拡張され整備されていった。
40年経った今、スキー場は、標高差2000メートルを滑ることができる、巨大なエリアになり、昨シーズンヨーロッパのあるスポーツ新聞がアンケート調査を行ったところ、「今いちばん行きたいスキー場は」の問いに、第1位と指名されるという驚異の人気スキー場になっている。
選手たちの合宿所だったホテルも年々改装を繰り返して、今では4つ星の一流ホテルになった。私は、ワールドカップを追って取材に駆けまわっていた頃、このホテルアンゲラルアルムをベースとして居たのである。春、ヨーロッパの取材を終えると、私はこのホテルに車もスキー用具もカメラさえも全てここに預けて、帰ってきたのである。その当時(1970〜2000年)、私のヨーロッパにおける実家と呼べる状況がそこにあった。そして、大病を何回もわずらいワールドカップの取材をやめてしまった今でも、このホテルは私のヨーロッパに置ける実家となっている。

ホテルのカレンダー(クラシック)

昔のたたずまい(クラシック)

◆定点観測

 37年間同じ時期に同じ場所に居ると言うことは言ってみればその期間を定点観測していたと言えるはず。長い時の流れの中で感じてきた事、気付いた事を分析してみれば、ヨーロッパの冬、その中でのスキースポーツの変化を伝えることができると考えている。
さらに私のワールドカップを中心に追って来た世界も12月初めフランスヴァルディゼール、中旬イタリアのマドンナディ・カンピジォ、バルガルディナ、そして冬休み、1月に入って、スイスのアデルボーデン、ウェンゲン、中旬にはオーストリアのキッツビューエル、サン・アントンはドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンと毎年ほぼ同じ時期にヨーロッパの有名スキー場をまわっていた。これも定点観測であった。
さらに私の奇妙なところは、毎年同じホテルに泊まり、その家族たちと親交を深めていると言うことだ。ヴァルディゼールでは、ラヴァンシェ、マドンナではトゥーリング、キッツビューエルではエリカと20年30年同じホテルに泊まっているのである。
ワールドカップを追わなくなった今でもそれらの家族から手紙、FAXがとどきインターネットで便りが来る。「娘のジェンカが結婚してもう孫が出来た。」とか、「息子のエリックが大学を卒業してアメリカに行った。」とか伝えてくるのである。

新しい高速リフト

3080m の山頂ヒュッテ

写真(右)は3080m の山頂ヒュッテ
ここは山の稜線なので、すごくせまい。 立っている人たちはイタリアのドロミテを見ている。
ここのヒュッテのトイレはイタリア側に出っ張っていて、穴がストーンと開いていて、排泄物がイタリが側に落下する。イタリア側からは絶対に人が近づけないので大丈夫なのです。 黒い深山カラスみたいな鳥が飛んでいて、排泄物を食べているらしい。 何しろ3080m ですからトイレに入ると下から猛烈な風が吹いてきてお尻が冷たい。

◆昨シーズンは「ヨーロッパに再びスキーブーム」と報告したが

 私は長い間、日本のスキー雑誌に「ヨーロッパスキー事情」を書き、多くの人に「今、スキーはこうした状況にある」と語ってきた。そして昨シーズン「ヨーロッパに再びスキーブーム」と報告している。この2,3年前からヨーロッパのスキー場には多くの人々が戻り、スキーは年寄りだけのスポーツから若者たちのスポーツへひろがり、ファミリースポーツとして回復しつつある」と。
ところが、今年の冬は、突然またまたスキー不況が襲ってきたと言える状況があった。ホッホグーグルは6人乗りの新しい高速リフトがかかり、下から上がって来るゴンドラも改装され大きな中間ステーションが出来て、このスキー場はますます人気を高めるだろうと思われた。
ところが、ホッホシーズン前の何から何まで安い期間(12月22日まで)に、お客がほとんど居ないのである。リフト代もこの安い期間は34€(ユーロ)(4760円)する1日券が31€(4340円)というのに、リフトはガラガラ、スキー場のコースは、人の影がまばらと言う状況であった。私の知る限り、ここでこんな状況は初めてなのである。

◆この不景気では、ゆっくり遊べない

  22日以降になって、ヨーロッパ中の金持ちが集まるシーズンとなる。毎年この期間はホテルは満室になるのだが、今シーズンは空き部屋が出来た。どんなに高い料金を払ってもこのクリスマスから正月にかけての期間は必ず、家族全員でここに来ると言う私たちの顔なじみの超大金持ちの一家も、いつもより2,3日おそく来て、4、5日速く帰っていった。いつも二人いた息子達も、ひとりは来ない。
「こんな贅沢を若いうちにさせてはならない」親父のハインツはそう語った。かつては2週間停まっていた家族は10日で帰り、10日間居た一家は一週間で帰っていった。4つの部屋を使っていた家族は3部屋に、3つ部屋を使っていた一家が2部屋にと、何から何まで。全てが縮小されていた。
何故こうした状況が起きたのであろうか。ドイツ人達は、「この不景気では、ゆっくり遊べない」と語る。ドイツの景気はかなり深刻な様だ。ZDFのドイツ放送を見ていると若者たちの失業率がまだ解決されず、そのドイツの不況の影響がヨーロッパ各国に拡がり「スキーどころではない」とするムードが生まれているというのだ、そして、それに追い撃ちをかける様に記録的な暖冬、スキーをあきらめる人々が出て当然である。
たった2シーズンで消えてしまったスキーブームだったのだろうか。見るスポーツとしてのジャンプやバイアスロン競技、そしてアルペンもTVの実況放送があれば人々は、テレビの前に座るのだが。
不景気、雪不足、見るスポーツとしての完成度が高まり、そうした条件が重なって自分で道具を買い車に乗って遠くまで行き、高い料金のホテルに泊まり、高いリフト代を払いスキー教師に金を払うという極端に金のかかるスポーツとなってしまったスキーは、敬遠される様になったのではないだろうか。

ホテルのパンフレット

ホテルの価格表

◆スキーは贅沢なもの?

  スキーをすると言うことは 、どれ程贅沢なことなのか、私たちの周辺を考えてみよう。日本から行く費用を別にすれば、ヨーロッパの人々と同じ条件になるはずである。
私たち夫婦はホッホグーグルに23日間滞在した。常連の古いお客さんも、「ウゥーそんなに居るの」と驚いてはいたが。
その23日間の中に、一年でいちばん料金の高い、12月23日から1月8日までの17日間が含まれる私たちはそのホテルで一番安い部屋をあてがってもらっているのだが、17日間の料金はひとり一泊163€(22,820円)で17日間で、約77万円。その前後の安い期間、前が1日93€(1万3000円)で5泊13万円そして、それに8日以降の111€(1万5500円)
ほぼ宿泊費だけで90万円かかるのである。そして食事の度にワインをとるから、そのワイン代と昼間のビールやコーヒーといった飲み物代が約15万円、その上にリフト券22日券は、475€(6万659円)で2人で13万円、さて合計したらいくらになるだろうか。120万円はかかるのである。
それがもし、スキーを借り、スキー学校に入るとなれば、さらに金額はかさむ。

◆スキーはあまりにも金のかかるスポーツ

 こんな贅沢な遊びはないだろう。このホテルでは、安くスキーを楽しんでもらおうと、ローシーズンに何回か、セット料金の日を設けている。11月から12月23日までの間7日間リフト券付き869€(12万円)と言うのだが、それでも高い遊びに違いない。
このホテルの常連たちは、ヨーロッパの超お金持ちばかり、フランクフルトに多くのビルを持っている不動産屋、医者、歯科医、弁護士という恵まれた職業の人ばかり。その超お金持ちの人達ですら、「スキーは金がかかりすぎる」と語っているのである。
やるスポーツ、道具をそろえ、車を走らせスキー場へ行きホテルに泊まりリフト代を払うといい、スポーツとしてのスキーは、あまりにも金のかかるスポーツとなった。「今年はスキーは一回2日間だけにしよう」と考える人が出てきて当然であろう。やるスポーツとしてのスキーは、衰退する運命にあったのである。

◆暖かい部屋でテレビ観戦するほうが楽しめる

 それに反して、見るスポーツとしてのスキーは盛んである。ジャンプ大会を長靴を履いて見に行っても、入場券は15€から30€なのである。そしてテレビの放映技術は、年々進歩し、テレビで見た方が、ずっと良く判るといった状況が生まれている。寒い思いをしてジャンプ台をかこむより暖かい部屋でテレビを観戦するほうが楽しめるという状況になっているのである。


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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