【連載40】特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) Shiga Zin
ホッホグーグルのホテルアンゲラルアルムでオーナー夫妻と |
◆ジャンプの観衆の多さにビックリ
前回ヨーロッパには、まだ冬は来ない。と書いたが1月に入って15日の夕方からやっとあちこちから雪の便りが聞かれる様になった。私はこのホテルに泊まって部屋のテレビで各地のさまざまな競技を見ている。毎年恒例の年末年始の4大シャンツェの4つのジャンプ大会では、12月29日のオーバストドルフのジャンプを午後から夜にかけて見、そして録画放送は次の日もまた見たのだが、ジャンプ台の周辺には一かけらの雪もない風景に、「まあ良くもこんな雪のない状況でやるもんだな」と感心し、観衆の多さにびっくりしたのだ。次の大晦日のガルミッシュ・パルテンキルヘンの大会は、強風と雨のため元旦に延期された。その日の大会は、朝から晩まで2日間に渡って4つか5つの放送局から放映されたため10回は同じジャンプを見せられた。そして3日のインブルックは強風と雪不足、さらにナイター設備がないとの理由で中止。舞台は、4つ目のジャンプが予定されていたビショップホウヘンに移って2日連続の開催となった。周辺に全く雪のない緑の中に一本の長い滑走路が作られ、第一日目、激しい雨の中で競技が強行されたが、あまりの強い雨のため一本目の終了前に競技は中止となった。
次の日6日そして7日と行われた競技は完璧といえるシャンツェコンディションで120メーターから140メーターに及ぶ見事なジャンプが見られ、恒例の4大シャンツェ大会は終わった。
子供が扮装して献金を集める ドライモーレンという宗教行事 |
雪がすくなく道路が乾いている |
◆ジャンプ競技への関心が大きくなっている
年末年始の約10日間、私はテレビの前に釘付けになっていた。
そのジャンプ競技を見ていて感じたことは、この競技への関心が大きくなっているということ。それは、その映像の中の観衆の数の多さであり、マスコミの扱いが大きくなったと認識できるのである。ジャンプ競技は再び冬のスポーツの華となり、見るスポーツのひとつとして確実に成長しているのである。
何故、ジャンプ競技がこれ程の人気を獲得したのだろうか。いくつかの理由が考えられる。ひとつにはルールが改正されて、見ていて判る競技となったこと。
そのルール改正は、笠谷、青地らが活躍して「強すぎる日本チーム」を崩せという要求への対策として行われたのだが、その結果はジャンプ競技に全く新しい時代を招いたのである。使用するスキーは身長に応じて決まる。そのルールのため、ヨーロッパ各国はこの競技に適応する体型の若者たちを選び出して対応した。それがほぼ10年の間に浸透して、今ではジャンプ競技の選手は身長180センチ、体重は70Kg以下のスマートな体型の若者ばかりとなって、体型による有利不利の差は消えた。競技は公平なものとなり技術の高さを競い合うものとなったのである。また、各地に全く新しい大シャンツェが造られ、競技ではさらに壮大な飛行が見られるようになったこと、年末年始の4大ジャンプはインスブルックを例外として全て新しいシャンツェで行われる様になった。
さらに人気を加速させたのはテレビの放映技術が格段と進歩して、部屋のテレビで観戦していても、今のジャンプは何メートルか、飛形点はいくつに出るかがその場で判るのである。シャンツェのランディングバーンに赤い線、青い線が引かれている。いちばん上の赤い線はこの線以上は飛ばないと上位に入れないよという線であり、次の赤い線はこの台のK点、そして次の線はこの台の最長不倒距離を示す線、そして次の青い線は、ここまで転倒するなという線、そして最後の赤いラインは競技はここまでで終わるという線なのである。さらに言えばジャンパーに続々と若い新鋭が現れ、、力の安定した2人の大スター、アホーネン、モルゲンシュテルンをおびやかす存在となろうとしている。
やっと雪が降り除雪車が活動 |
除雪車が働いている |
◆アルペン競技の凋落ぶりはどう考えたらいいのだろうか
ジャンプ競技の人気が沸騰しているのに続いて、かっては地味なスポーツだった他のノルディック種目も日に日に高まっている様に見える。中でもバイアスロンの人気はこれは本物だぞと思えるのである。 そして、ラングラウフやノルディックコンビネーションにも陽の当たる気配を感じるのである。
それに反して、アルペン競技の凋落ぶりはどう考えたらいいのだろうか。
約35年を越えてこの競技を追い続けた私の目から見れば、今の事態は異常である。思い返してみれば、FISの老人達の身勝手なルール変更、開催地、開催日の変更が続き、「これではついていけないよ」とするムードが生まれているのである。かつて私が追っていた頃ワールドカップの開幕戦はフランスのヴァルディゼール、スラロームの第一戦はイタリアのマドンナディカンピジオと決まっていて、正月に入ればクラシック3大レースのシーズンとなり、第一週がキッツビューエルの滑降、スラローム、続いてその週の木曜日がアデルボーデンの大回転、週末の土曜日がウェンゲンの滑降、日曜日がスラロームとなっていて、取材の為に泊まったホテルも帰り際に「来年は何日と何日はお前のために部屋をとっておくよ」と言ってくれたのである。
ところが今シーズンのワールドカップはアメリカで開幕、イタリアのボルミアで滑降となり、1月の恒例のクラシックレースは6日7日にアデルボーデンの大回転、スラローム、9日10日11日とウェンゲンのスーパーコンビ、滑降、スラローム、18,19,20日にキッツビューエルのスーパーG、滑降、スラロームになっている。これではどんな熱狂的なファンでもついていけない筈である。
ホッホグーグルのゲレンデ |
ホテル アンゲラルアルム |
◆今、アルペン競技にスターと呼べる選手はいるだろうか
そして各国選手の技術がは伯仲していて誰が勝つか、見ていても判らないという状況があり、圧倒的な強さを誇るスターが居なくなったということもアルペン競技を見守るファンに何か物足りない思いをさせているのではないかと思えるのである。私は1960年代後半ワールドカップが始まった頃からアルペン競技にのめり込んでいたのだが、キリー、シュランツ、トエニ、クランマー、ステンマルク、グロス、マイヤー、そしてトンバまでスター選手の活躍を見守り、彼らと親交を持ち、多くのレポートを送って来た。今でも多くのスター達との交流は続いている。 このホテルにも何人かの昔のスター選手たちから、クリスマスカードが送られてくる。12月の末ごろ、あの世界一美しい女性選手と賞賛されたファビエンヌ・セラと夫の1979年ワールドカップの総合優勝者ペーター・ルゥーシャー夫妻から美しいカードがとどいた。その中に娘と息子がスイスナショナルチームに入ったとあった。私は時のすぎることの速さを感じてビックリしている。
ドイツのスター選手だったクリスチャン・ノイロイター、ロジ・ミッターマイヤー夫妻の子供フェリックスがワールドカップのスラロームに活躍をしているのを見るとうれしくなる。
今、アルペン競技にスターと呼べる選手はいるだろうか。テレビでインタービューを受けている選手達の顔が私が取材していた頃に居た選手ばかりなのである。オーストリアでいえば、ヘルマン・マイヤー、ベンジャミン・ライヒ、アルフレッド・マットだが、もう30才を過ぎたオジサンにはスターの香りを感じないのである。
アルペン競技の凋落はもう救えないのだろうか。
ホテル前のスキー置き場にボードが8台あった |
ポルシェのバンタイプはめずらしい… |
◆今シーズン急速に人気を回復している競技
アルペン競技が寂しい状況にあるのに反して、今シーズン急速に人気を回復している競技がある。それはこの2年前私がこのレポートで報告してきた「スノーボードは消えた」とする記事を訂正しなければならない状況なのである。
私の泊まっているホテルのスキールームにボードの数が増え、スキー学校のスノーボードのクラスにたくさんの子供が入っているのである。この2年程、全く姿を消したボーダーが何故戻ってきたのか。
このホテルのオーナーのギディに聞いた。彼は、「確かにこの一、二年の状況は変わった。スキー場の中に多い日には約10%のボーダーがいる。」と言うのだ。
それはスノーボードが若者たちにとって格好のいいスポーツに見える様になったということではないかと思うのだが、それは2年前にスノーボーダーは消えたと書いたときと同じなのである。
テレビで見るプロのボーダーの信じられないアクロバットな演技は年々激しくなる一方なのである。2,3年前は家族でスキー場に来た若者がボードをやっていると、家族の中の大人たちから見ればテレビで見るボーダーとあまりに差があり過ぎて、息子達に「あんなカッコ悪いことはやめてくれ」と言ったのである。そして若者たちもプロとのあまりにも大きな差にガックリきて、止めてしまったと思われる。
ところが突然の復活は何だろうか。私は、このスポーツにも二分化が起きている、と考えている。「あれは、プロの連中の見せる演技、俺たちは雪の上での楽しい遊び」といった思いが若者たちをとらえているのである。
特に幼児たちにボードを持たせる親が多く、子供たちもボードの教師について喜々として楽しんでいる。この子供たちは、親たちからの絆を解かれて、子供たちだけの新しい楽しみを見出しているはずである。この子たちの成長はこれからどんな方向に向かうのか楽しみなことである。
◆スキー場に、スピード制限が行われる
次に報告しておきたいのは、ドイツ、スイスのスキー場に、スピード制限が行われるということだ。私は直接それを見たわけではないが、オーストリアのテレビORFにニュースとして扱われていた。スキーヤー同志の衝突事故がスキー場の中での障害の主な原因と考えられ、そうした事故の多発地域にスピード制限の標識が立てられ、スキー場のパトロールが、手持ちのスピードガンで暴走スキーヤーを監視して注意するというのである。
急斜面の入り口やカンテの手前という立ち停まったり、スピードを落としたりする先の見えにくいところに、道路標識と同じ赤い丸の中に30キロの数値が描かれた看板が立てられ、そのまわりに黄色い板にここは危険箇所だと書かれている。
こうした制限がどの程度効果があるのか、シーズン終わり頃に発表されるであろう統計を見守りたい。
◆グレートカムバック
私たちの帰国の直前、恒例のキッツビューエルのハーネンカムレースが18日スーパーG、19日滑降、20日スラロームという日程で行われた。好運なことに15日から降りはじめた雪と人工雪とによって、コースは完璧といえる状態になっていた。キッツビューエルの村の強引な日程変更は成功したのである。
18日のスーパーGで思わぬことが起きた。それは、第一シードの15人が滑り終わってレース上位が決まったという何となく和んだ空気につつまれている時、”ベストツビシェンツァイト”(中間タイムベスト)の呼び声が会場に流れ、テレビの画像のタイム表示にも緑色の数字が示された。22番スタートのかっての英雄35歳になるヘルマン・マイヤーが、あわや逆転というタイムをたたき出したのである。
会場は大歓声につつまれ、テレビのアナウンサー、解説者も大声をはり上げて、ヘルマン・マイヤーの名前を連呼していた。
ゴール前のタイム計測もまだ緑のまま、ヘルマン、ヘルマンの大声援の中にヘルマン・マイヤーはゴールした。
電光計時は一瞬赤に変わり2位と表示された。かつての大スターへルマン・マイヤーの復活である。
ゴールを囲んでいた観衆は、2位のヘルマン・マイヤーを称える大声援を送って、優勝したリヒテンシュタインの36歳の超ベテラン、マルコ・ビュヘルを上回る賞賛の拍手を送った。その夜のテレビはヘルマン・マイヤー一色になった。グレートカムバック、次の日の新聞には、そうした文字が浮かび、このスーパースターのカムバックを祝っていた。
次の日19日の滑降は、空前の大観衆に包まれた。私の長いキッツビュ−エルの経験の中にもこの大観衆の記憶はない。シュランツ、クランマーの時代より多い観衆だと言えるはず。ワールドカップはかっての盛況を取り戻したと言えるだろう。
ヘルマン・マイヤーの復活は、ワールドカップを生き返らせたといっていい。スーパースターひとりの復活がこれ程の力を持っているのかと改めて感じいっている。
◆レースでの事故
同じハーネンカムレースで大きな事故が起きた。 滑降レースで2番目にスタートしたアメリカの若い選手マッカートニーがゴール前の最後のカンテで転倒し、そのまま動かなくなった。ヘリコプターで2人の医師が到着したが、その選手は意識がなく全く動かず、ヘリコプターに吊り下げられて病院に移送された。
生死の間をさまよっている若者の病状を伝えるテレビでは、軽いヘルメットの締め具がプラスチックであり、ヘルメットがはずれたことが事故の重大要因だと報じていたが。
ヘルメットが雪上に転がっている (現地の新聞より) |
連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。