【連載26】特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか Shiga Zin
※連載26は、単独でお読みいただけます
志賀Zinさん |
◆今、どんな危機感があるのか
夏を前にしてスキーに関する大きな集会が続いた。全日本スキー連盟創立80周年記念(平成17年6月26日)、東京都スキー連盟70周年記念(平成18年6月25日)、そしてMt6 年次総会である(平成18年6月29日)。私はその3つの会場に顔を出した。古い友人たちに会えるという期待が参加を決めた理由だが、もうひとつ別の思惑があった。それは、「スキー関連の仕事についている人々に今、どんな危機感があるのか」ということをさぐり当てたいという思いであった。
いずれの会場でも人々の顔はいずれも屈託のないものに見えた。きびしい状況にある、スキー用具販売の一線に立つ人々が、こうした会合に参加していないことが、暗い顔を見ることがなかった理由のひとつではあるはずだが、私はその場の明るさに戸惑いを感じていた。
◆ZIN、ここのスキー場に起きていることをじっくりと見ておけ
暑い中来ていただきました |
いつもの取材待ち合わせ場所 横浜ランドマークタワー「ガラスの灯台」 |
山田SAJ理事と志賀Zinさん |
お勧めの蕎麦 これはおいしいよ |
約15年前、1980年代後半、ヨーロッパでは、スキー不況が言われ、多くの人々の暗い表情に接して来た。私にとって、その日本のスキー界の明るさは驚きであった。
ヨーロッパではスキー不況という状況は、1980年代の初めから始まり1989年それは深刻なものとなった。
その1989年の6月、私はF・ホッピッヒラー教授に呼ばれて、ヒンタートックスという氷河のスキー場に行った。「ZIN、今、スキーの世界はとんでもない変換期に入っているぞ、ここのスキー場に起きていることをじっくりと見ておけ」と言われた。
2,3日の短い滞在の間に見たのは、若者たちのスキー離れ、それはスノーボードの急速な普及を背景にして進行している様に見えた。
スキー愛好家の高齢化、それは、ドイツのリゾート法、そして高齢者に対する年次休暇の法制化が、その現象を生んでいた。
◆スキー産業、スキー業界は壊滅的なダメージを受けた
ホッピッヒラー教授は、「今、ここで起きている現象が、スキースポーツの終わりの始まりにならなければ」と暗い顔を見せたが、その年の1980年から次の1990年の約10年の間に、スキー産業、スキー業界は壊滅的なダメージを受けた。「スキーが全く売れない」という事態が発生したのである。それまで、年間200万台を売って来たスキーが、何と一気に半分以下に落ちたのである。
スキー業界はパニックに陥った。大量にスキーを生産し、売りさばいていた大きなメーカーがバタバタと倒産した。クナイスル、フィッシャー、ロシニョールといった超有名品を売っていたメーカーが大きなダメージを負った。
小さななメーカーは、その小回りのきく業態のため、スキーからボードへ変換することで、その危機をしのぐことができた。
◆ヨーロッパの業界の勢力図はこの数年間で大きく変わった
1990年、私が毎年長期に滞在する、ホッホグーグルでも、時代の流れはスキーからボードに移り、スキー場に来る人々の数は大きく落ち込んでいた。
しかし、その厳しい状況は、わずか数年で解消した。スノーボードのブームはわずか数年で解消した。スノーボードのブームは、わずか3年か4年で消えてしまったのである。
スキーコースの中に、座り込んで、スキーヤーの邪魔になっていた子供たちは消えてしまった。そして、そうした年代の子供たちが、スキーヤーになったのである。ボードに乗って不ざまな滑りをしていた子供たちが、新しいカービングスキーという武器を手に入れて、楽しそうに滑っている。その子供たちを連れて来たオジーチャン、オバーチャン達は、そんな子供たちをスキー学校に預け、自分達も新しいスキーをはいて、楽しそうに滑っている。
カービングと呼ぶ新しいスキーの出現がこうした全く新しいスキーの風土を生み出している。今、ヨーロッパには、新しいスキーの時代が訪れているのである。
◆日本ではスキー人口の増加はまったく望めない
さて、果たして日本にこうした、ヨーロッパで起きた好運な状況は生まれるのであろうか。私は、このテーマに関しては、極めて悲観的である。「ヨーロッパと日本では状況が違う」と思っているからである。
先日、野沢温泉で開かれた、Mt6総会で講演をした藻谷先生の話を紹介したい。先生は、日本人の年齢別構成、そして推移を正確な図表を作って見せながら、この20〜30年間の日本人の年令構成の推移を見せ、これから5年後、10年後の予想を示しながら、スキー業界の人々には極めて厳しい現実を紹介してくれた。
「これから、スキー人口が増えるという可能性はない」と結論付けた。
私は、その話を極めて確度の高い情報として受け止めた。氏は、今の状況からは、スキーヤーの増加は全く望めないと説明、Mt6の人々は、年間通じて客が呼べるリゾートを目指すべきと語り、スキーヤーが急激に減った、草津、蔵王が、年間利用客が変わってきたと報告した。
スキーヤーが激減した草津は、「草津よいとこ一度はおいで」という声に、春から秋までのお客が増えていると報告している。スキーヤーが減少している蔵王では、樹氷見物と温泉というお年寄りのお客が増えているという。蔵王ロープウエイの社長 大久保さんは、「スキーヤーが減ったといっても、樹氷見物の人達が増えて、かえって経営的には良いですよ。スキーヤーは登り片道しか乗らないけど樹氷見物のお客さんは下りも乗ってくれる」と語ってくれた。
スキーヤーの落ち込みが際立っている草津、蔵王が、新しい観光客の開拓というか、昔からあった観光資源を復活させたことは注目しなければならないだろう。
◆スキー関係者がスキー不況を他人事(ヒトゴト)と、とらえていることが問題
「景気が悪いから」「スキーをする世代の人口が減ったから」とばかり嘆いていても何も変わらないのである。
今、スキー関係者が思いをいたさなければならないのは、スキーブームと呼ばれていた時代、自分たちが、何をしなければならなかったのか、そして何をしてはならなかったのか、の反省ではなかろうか。
ひとりひとりの関係者が、その時代、どんな仕事をしていたのか、反省することは多いはずである。都会のラーメン屋なら350円ぐらいで売っていた、同じようなラーメンを1000円で売って儲けていた親父さんは、その頃、札束をかかえて、都会に出て行き、ちょっと飲めば1万円といったインチキバーで、金をばらまいていたのではないか。
一泊1万円を取ったペンションが6畳一間に8人を泊めて都会のコンビになら600円で売っている程度の食事を出していた。そうした、サービスの状況が都会の若者たちをスキーから遠ざける結果を生んでいたということを、もっと真摯に深く考え直す必要があるはずなのである。今、スキー関係者がスキー不況を他人事(ヒトゴト)と、とらえていることが問題なのである。
◆スキーに戻ってくるかもしれない世代は?
今、都会の若者たちはパソコンが主な遊びである。気持ち良く冷暖房の効いた部屋の中で、ピッピッピッとパソコンを打ち、テレビゲームに夢中になっている。そしてその親たちは、「うちの子は家にいて遊んでいるいい子だ」と思っているのである。外に出て、野球、サッカーなどケガをするかも知れない遊びより家の中にいる子の方が安心なのである。
こうした社会状況が、当たり前になった今、スキーに来いと言ってもほとんど拒否されるであろう。そうした状況の中で、スキーに戻ってくるかもしれない世代は、団塊の世代と呼ばれた60歳から70歳の定年世代ではなかろうか。日本の人口構成の動きは、この世代が握っているのである。働き続け、働き続けた世代が、ホット、体をやすめ心をいやす時代に入ったのである。彼らはその環境を受入れる業を持っていない。何をしたらいいか、何か楽しめるものがあるのか。とまどっているはずである。
ヨーロッパでは、そうした世代に新しい世界が拓かれている。雪の山、スキー、それが日本で言う団塊の世代に夢を与えているのである。スキー場には、60代、70代のオジーチャン、オバーチャンがあふれ、それらの年寄りに連れられた孫の世代の子供たちが楽しんでいる。
以上
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※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。