【連載16】レースの世界から参入 出口沖彦と斉木隆 Shiga Zin


※連載16は、連載15からの続きとなります。


第42回技術選にて 左から平川さん、市野さん、山田さん、志賀さん

◆速さなら、俺たちもあいつらには負けていない


第42回技術選を観戦する志賀さん

志賀さんと杉崎理事

実業之日本社「スキー」の志賀さんの連載
基礎スキー界の若き旗手 第5回
「鮮烈なる風」
美しさ正確さを追求する様式美の世界から、日本のスキーは速さ強さを求めるものに変質しようとしている。それは、スポーツとしての当然の要求といっていい。

 1980年、16年間続けられてきたデモンストレーター選考会が廃止され、新たに、基礎スキー選手権がスタートし、デモンストレーターは、その基礎スキー選手権の上位選手たちで争われるタイトルとなった。
基礎スキー選手権の第1回は、北海道の大和ルスツスキー場で行われ、地元北海道の吉田幸一がトップに立った。
その第1回から数年回は、北海道のスキー道場、藤本進の門下生たちが上位を独占していた。吉田幸一、佐藤正人、石井俊一、細野博らがそれである。そのO社の支援を受ける藤本厩舎と呼ばれる軍団に挑戦したのが、K社のスキーをはく小林平康であり、藤本門下にありながらスピードを追求した渡辺三郎であった。
2人の行為は、スキーは速さが命だとするヨーロッパの人々の常識を日本のスキー界に持ち込むことになったのではなかろうか。
速さなら、俺たちもあいつらには負けていない、と信ずる若者たちが基礎スキー選手権に参入することになった。

◆俺にだってチャンスはある

 速さで世界の頂点をねらうワールドカップに挑戦していた、全日本の滑降チームの斉木隆が、外国産A社のスキーをはいて参戦して来た。そして斉木に続いて、外国産のN社の支援を受けて、赤倉の、モンブラン少年金子裕之と、早大スキー部のアルペンレーサー出口沖彦が参加、基礎スキー選手権ははなやかな話題に包まれる世界に進化していった。
世界のアルペンレースの頂点にあるワールドカップを戦っても40位、50位といった惨めな結果しか残せない斉木たちにとって、基礎スキー選手権の世界は全く異質な世界であったはず。世界のトップレベルに挑戦するという行為は、彼らにとって、青春の全てを賭ける、人生の全てを賭けるという意味を持っていたはずだが、40位、50位では日本の新聞にも全く報道されることはなく、日本のトップレーサーであると言うことすら人々の話題には上がらないのである。少年時代、競い合っていた若者たちが、基礎スキー選手権という舞台の中でスターになって行く状況は、彼らにどんな思いを植えつけたであろうか。あいつがスターになるなら俺にだってチャンスはある。そう思っても不思議ではない。全く違った世界がそこにあった。
多額の遠征費を捻出していたメーカー側が、その世界への挑戦をうながしても当然と言える事態が同時にそこにあった。斉木たちの基礎スキー選手権への参入はそうした背景の中で実現したのである。

◆基礎スキー選手権は淡々と平穏に進行

 SAJはその当時、この競争を世界の競争にすると言う夢を持っていた。「基礎スキー選手権をオープン化し外国人の参加も認める。」という案が話し合われていたのである。
そうした話し合いが続く中、基礎スキー選手権は淡々と平穏に進行していた。その45年を振り返ってみて、私に特に書いておきたい事件を思い出すことができない。そこで、その1回から6回までの基礎スキー選手権の上位者を一覧表にしてお目にかけよう。

 

1979年16回デモンストレーター選考会から、1980年第1回基礎スキー選手権となってから4回、5回基礎スキー選手権から、第21回スキー技術選手権となる前後の上位者。
1979
16回デモ
1980
第1回
1981
第2回
1982
第3回
1983
第4回
1984
第5回
1985
第6回
吉田幸一
10
11
佐藤正人
渡辺三郎
27
10
10
細野 博
14
23
石井俊一
17
12
13
13
高山重人
13
32
42
14
10
柳橋泰久
35
32
47
33
12
18
小熊恵一
24
29
20
14
17
竹村幸則
24
金子裕之
23
21
22
出口沖彦
15
斉木 隆
工藤雅照
R.T

◆出口沖彦 気軽な気持ちでスラローム男は基礎選に参加


42回技術選 村里競技本部長と志賀さん

出口沖彦

ダイナミックな出口沖彦の滑り

滑る姿を見ていると小柄な出口沖彦のからだがひときわ大きく感じられる

 この平穏な時代、藤本門下生だけの世界であったことが判る。レースの世界から参入は、第4回基礎スキー選手権からの竹村、金子、そして第5回(第21回スキー技術選手権)からの出口、第22回スキー技術選手権への斉木隆と続いている。
1984年第5回基礎スキー選手権は、第21回と数えられる様になった。16年のデモンストレーター選考会の伝統の上に積み上げるべき基礎スキー選手権だとする思いがSAJ幹部の人々の中にあったのであろう。
私は1984年第21回と数える基礎スキー選手権、そして次の1985年の第22回基礎スキー選手権を思い返している。
この21回22回は青森県の大鰐で開催された。21回大会に出場した出口沖彦は、初出場の動機を次の様に語っている。「大鰐でやるんなら急斜面と中斜面が多いはず。それなら俺でも何とかなるんじゃないか」気軽な気持ちでの挑戦だったのである。
出口は福島県猪苗代の産。中学、高校そして早大に進学してもアルペン競技を続け、その才能を認められた俊鋭であった。早大3年当時、インカレのスラロームに勝ち、全日本のスラロームに5位入賞と言う戦績を残している。その時の全日本のランキングでは上山利治につぐ2位を占めているのである。
日本アルペン界のトップレーサーであった出口は、大学卒業と同時にD社に入社、レーシングサービスを担当、日本国内のレースで後輩選手達の面倒を見るのが仕事だった。その出口が基礎スキー選手権への出場を思い立ち、当時、北海道の藤本厩舎とならぶデモの道場、浦佐スキー場に通い、平沢文雄、平川仁彦の特訓を20日間受けて、にわかに大鰐に現れたのである。

◆思い切りのいい自分自身のスキー

  初参加の基礎スキー選手権で出口は総合滑降(規制)で渡辺三郎につぐ2位、急斜面パラレル6位とほぼそのポテンシャルを見せている。ところが急斜面ウェーデルン、ゲレンデシュプルングといった競技出身者なら得意とするはずの種目に失敗15位となった。
彼にとっては不本意な初出場であったはず。しかし、その出口のスキーに専門家の間ではかなり高い評価が語られていた。
「無理に個性を殺し、無難に順位をねらうといった姿勢が見られず、思い切りのいい自分自身のスキーでこの基礎スキー選手権を戦うと言う姿勢にはスポーツマンらしい、さわやかなものを感じた」と評価されたのである。
続く第22回基礎スキー選手権でも、その姿勢を崩すことなく全種目に自分のスキーを展開、その個性をアピールしていた。
総合滑降自由で、その軽快な滑りは277点の高得点をたたき出し種目に1位、総合滑降(規制)でも280点の高得点で2位、この高得点を得た2種目に加え、急斜面ウェーデルン12位は、急斜面、高速種目に強い出口をアピールするに十分な成績であった。早大のスラロームのエースと呼ばれた出口にして達成された総合5位であった。
浦佐で彼をきたえた平川仁彦は、「彼のスキーのいいところは、あらゆる状況に適合するコーディネーションにすぐれたところだ」と語った。日本のスキー界に新しい可能性を持ったスキーヤーの誕生であった。

◆斉木隆 「高校最後の年には全日本のアルペン特別強化選手に指定」

 出口沖彦がデビューした次の年、アルペン競技の世界からの新しい参入者がコールされた。斉木隆である。
上越の石打スキー場で生まれ育った斉木は、石打中学、湯沢高校と進学する。その中学、高校時代、全中やインターハイで活躍、そのセンスの良さとスピード感覚を認められて、高校最後の年には全日本のアルペン特別強化選手に指定され早くもナショナルチームの一員となった。
この少年の才能を全日本のコーチ達がいかに高く評価していたかがうかがえるはず。何度かの海外トレーニング合宿に参加の後、斉木は千葉信哉、相原博之、中村道彦らの滑降チームに編入され、ヨーロッパの滑降コースを滑り始めた。
日本国内での滑降トレーニングを全く経験していないこの少年の編入は、かなり危険な賭けではなかったろうか。「本当に怖くって苦しかったんです」斉木は後にそう語ったが、チームの先輩たちを追って懸命に速さの世界に入ろうとしていた。
世界最高速の速さの舞台で、トップレーサー達に10秒、15秒と引き離されながら斉木は着実にスピードを身につけていった。
片桐幹雄が引退したあと日本の滑降は千葉、相原に受け継がれていたが、その2人に続くのは隆とするムードが日本チームの中に生まれていた。

◆大きなアクシデントで地獄を経験


横浜で志賀さんから原稿をいただきます

山田さんと話す志賀さん

斉木隆

初出場で斉木ほど注目を浴びた選手も珍しい

現役ナショナルチームメンバーの基礎選出場

24回大会の斉木隆の総合滑降
エアターンをいれ、見事な滑りを見せた

  その斉木隆が日本のエースになるべき1983年のシーズン、隆は、その最初のレースで大きなアクシデントに見舞われた。
雪の遅かったそのシーズン、例年なら滑降第1戦のヴァルディゼール(フランス)となっていたのが、コースに雪がないため、スイスのサンモリッツ近くのポントレジーナに会場を移して行われることになった。
コースはわずかに降った雪と人工雪で固められていたが、深いカーブの多いコースはかなり危険なものとなっていた。
公式トレーニングが続く中、転倒者が続出して、トレーニングはしばしば中断されてた。「日本選手が大けがをしてヘリコプターで病院に運ばれた」とのニュースが入った。
斉木隆は、ヘリコプターで、隣村のスコーレの病院に運ばれていた。斉木の負傷はかなり深刻なもの。両膝靱帯の切断。スキー選手としては、そのまま選手生命を絶つほどの意味を持っていた。
スキー選手として再起できるかどうかというより両足で歩けるのか社会復帰できるだろうか。そんな思いが隆の胸をしめつけた。「寂しかったですよ本当に」誰も知らない外国でひとり病床に釘づけにされた斉木にとって、その試練はどんなにつらい経験であっただろうか。私は隆からその時のつらい思いを胸をしめつけられる思いで聞いた。

◆あっスキーができると感じた時、本当にうれしかったんです

  切断の危険にさえあった両脚を回復させ斉木は帰国、日本の病院でのリハビリで1年後に奇跡とも言える回復を見せて両足で土を踏みしめた。
「またスキーができる」新しいシーズンが来て医師から許可が出た時、斉木の胸は躍った。「だけど、明日はスキーをはいてみようと思った前の日の夜、本当にスキーができるのか不安だったんです。スキーや靴を出して来て、さわってみてもはいてみても不安だったんです。その晩はどうしても眠れなかったんです」とその時の不安を語ってくれた。
「次の日の朝スキーをはきリフトに乗りゲレンデに立ったその瞬間もまだ不安は消えていなかった」と言う。
「滑り出して、あっスキーができると感じた時、本当にうれしかったんです」隆はその時を思い返してうれしそうにい語った。

◆ナショナルチームへの復帰と基礎スキー選手権出場への準備に

  その日から斉木は、ナショナルチームへの復帰に向けてトレーニングを開始した。それと同時に周りからのすすめもあって基礎スキー選手権出場に向けて準備にとりかかった。
浦佐スキー場に平川仁彦をたずね、基礎スキー選手権についてのレクチャーを受け、わずかだが雪の上のコーチを受けた。わずか数日のトレーニングで、ぶっつけ本番と言う形で、基礎スキー選手権に参入したのである。
「あのナショナルチームのダウンヒラー斉木隆が出場する」の噂はたちまち全国各地の多くのファンの間に知れ渡っていた。不便な大鰐まで多くのファンが集まっていた。
長身そして抜群のスキーセンス、さらにヨーロッパの堅い長いコースで、世界の一流のダウンヒルレーサーを見、そのスピードと競う経験は斉木隆という青年を日本人のそれまでなかった領域にひき上げていたはず。
第22回基礎スキー選手権は、スラロームチームから来た出口、そして滑降チームから参入した2人のワールドカップレーサーによって本物の速さが鮮烈に印象づけられる基礎スキー選手権となった。

◆第22回基礎スキー選手権 最終種目総合滑降(規制)

 1985年3月12日、この日は第22回基礎スキー選手権の最終日であった。大きなバーンは硬くてその上に前夜来の新雪ががわずかに積もり表面を輝かせていた。この大会の最終種目総合滑降(規制)が行われることになっていた。
大きなバーンの周辺は競技の開始前から多くのギャラリーに囲まれていた。佐藤正人、渡部三郎、細野博の3人のトップ争いの決着がこの種目で決まることをほとんどの観衆が知っていたはず、そして、さらにこの種目で出口沖彦、斉木隆がどんなスキーを見せるかに関心が集まっていた。
大きなバーンは前半が急斜面、そこに左右に大きく振れる4つのハイスピードターンを要求する旗門が立った。そして後半は中斜面。そこにはより深い大きなターンを要求する旗門がセットされて、そのコースは、ワールドカップの新種目スーパーGの様なものとなった。コース途中に2ヶ所ジャンピングポイントが配されていた。
スピードの出るコースに若者たちの果敢な挑戦が始まった。藤本進門下の出倉義克がいいスピードで高い得点をたたき出しまずリード。その得点を出口が抜いて会場は熱っぽいムードにつつまれた。続いて出口と同じ東京都から出場していた春日孝が並び、さすが競技上がりはスピードに強いと印象づけた。

◆ビブナンバー133 斉木選手スタート

 ほとんど勝負は終ったと思われているその時間になってもコースを囲むギャラリーは動かない。133番斉木を待っていたのである。
「ビブナンバー133斉木選手スタート」のコールと共にピステは緊張した。赤いセーター、赤いパンツの斉木がスタートした。最初の旗門まで2つのターンをつないでスピードを上げた。ギャラリーがちょっとざわめいた。「早い」誰の目にもはっきりと焼き付けられた。「やっぱりダウンヒルレーサーだ」誰もが納得していた。息をのんで見守るギャラリーの視線の中で斉木のスキーは実に楽しそうだ。軽く、そしてしなやかでスムースな軌道を描くそのスキーには、人々の目を楽しませる優美ささえあった。それまで滑った誰の軌道より高い位置でスキーの方向を決め旗門に余裕を持って入っていく、そのコースどりは、さすがワールドカップのコースで鍛えた一級品と誰もが思ったはず。
多くの転倒者を出したジャンピングポイントも全く不安を感じさせないエアーターンで通過、後半もさらにスピードを上げゴールに飛び込んだ。期せずして「ウォー」という感嘆の声が上がり、続いて大きな拍手と歓声がピステをつつみ込んだ。
この基礎スキー選手権における最高のスキー、見る者を陶酔に誘い込むもっとも快感度の高いスキーであった。
5人の審判員があげた得点には、98、97と高い点が並び、この種目の斉木の得点は288点となった。この大会の各種目の最高点が277点、280点、276点という状況の中で、斉木の288点は突出した高得点であった。
コースを囲んだ大観衆は、この斉木の滑りを見、高得点に納得して囲みを解き、コースを降りていった。この第22回基礎スキー選手権は、斉木、出口の滑りによって、「速さの基礎選」と記憶されることになった。


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
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連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
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