【連載29】ヨーロッパ通信 「ヨーロッパにまだ冬は来ない」 〜シュテムシュブングについて Shiga Zin


 ※連載29は前半独立、後半の内容は、連載28の最終章へ繋がります


ホッホグーグルのホテル アンゲラルアルムにて 左から志賀夫人、オナー、志賀さん

◆アンゲラルアルムでのんびり

 例年の様に今年も12月中旬からヨーロッパに来て、クリスマス(こちらではバイナハトという)から、大晦日(シルベスター)をはさんで、オーストリアのどんづまりと呼ばれる氷河の上のスキー場、ホッホグーグルの大好きなホテルアンゲラルアルムでのんびり1ヶ月を過ごすことにした。それはもう、40年近く続く私の生活パターンとなっているのだ。そのアンゲラルアルムから、ヨーロッパのスキー事情を報告しよう。日本に居る間に書き始めた原稿は、その後に続いてお読みいただきたい。
(編集者の都合で、1月中に原稿をいただきましたが掲載が遅れましたことをお詫びいたします)


標高2150mの道路に一片の雪もない

ホテル アンゲラルアルムをバックに

◆ヨーロッパに冬はまだ来ない

 ヨーロッパに冬はまだ来ない。「暖冬だ」という表現では、この冬の異常さは説明できないのである。インスブルックからこのホテルまでの道路は、たった一片の雪も氷もなく全く夏の道であった。
ミュンヘンのお医者さん、あおいマーカーさん(あの有名なセーフティビンディングを開発したハンネス・マーカーさん夫人)に電話したら 「11月下旬から50日以上もミュンヘンでは気温はマイナスになっていないとニュースで聞いた」と話してくれた。そしてそんな記録は気象観測が始まってから今までなかった事だと言う。
この異常気象についてある記録が発表された。それによると12月中に雪が降らなかったことは1917年、何と90年前に一度記録されているが、その年でも1月に入ったら雪が降り始めたとか。さて、1月15日まで全く雪が降らないという今シーズンの異常は史上初めてということなのである。何と1月19日のメールでホッホグーグル(2400メートル)で雨が降っているという。20日から始まるキッツビューエルのハーネンカムレースもできないと言う。
こうした気象異変はヨーロッパのスキーシーンに深刻な影を落としている。わずか何箇所かスキーが可能なところがあっても、スキーに来る人が減ってしまっているのだ。さすがここホッホグーグルは、2千メートルを超え3千メートルに及ぶ氷河の上のスキー場だから充分スキーが楽しめるのだが、それも3080メートルの高さを頂点にして1790メートルまでの長い滑走路わきに水道を施設し、何10台あるか判らないぐらいの人工降雪機を配置して、毎晩人工雪をコース上に撒いてコースを維持しているという状況なのである。


標高が高くても降雪機が

スキーは充分楽しめました

現地の新聞も詳細に報道

ヘリで雪を搬送!

◆スキーワールドカップは中止や会場変更が続く

 こうした異常な気象状況は、スキーのレースに大きな影響を与え、スキーワールドカップは中止や会場変更が続き、テレビ中継を楽しんでいる一般のファン達を混乱させている。
今日1日12日(土)は歴史的な人気レース男子のウェンゲンのラウバーホルンの滑降の日だが朝から部屋のテレビを見ていたら、強風のため中止、それではとアルテンマルクトの女子滑降をと考えていたら、これも中止となってしまった。(1日間延期されてどのレースも実施された)
こうした事態が続くと、観るファン達も減ってしまうだろうと関係者は心配しているのだが、果たして、この正月里帰りで、この家に帰ってきたこの家の娘たちが 「もうテレビでスキーレースは見ない」と語っていた。この家の二女のウーシー・シャイバー、三女のイングリットは若い頃オーストリアチームに在籍して、ワールドカップ、ヨーロッパカップを転戦していた元選手なのだが、そして更に驚くべきは、ここの長女ロスミッターと結婚して、この家の経営者となっているギディ・アッカホルナーは、10年前までオーストリアナショナルチームの監督だった男なのだが、「ZIN一緒にテレビでレースを見よう」と言わなくなったのである。
また何年か前まで、レース中継のある日は大型のテレビのあるTVラウムは観戦する子供たちでいっぱいだったのが、全くその気配はなくなってしまった。
スキーファンは、テレビの前から消えてしまったと言っていい。


志賀さんもスキーを堪能

夜は正装で夫人とディナーを

レースの開催も… コースに雪がありません

◆ホッホグーグルは超人気でスノーボーダーも見かけた

 さて、ここホッホグーグルは、オーストリア国内でどこにも雪がないという時でも、わずかにスキーのできるスキー場として超人気のスキー場である。年末年始のこのスキー場の賑わいは、かっての苗場の賑わいを思い起こす程であった。
私はこのレポートに昨年版に「ヨーロッパではスキーは完全に年寄り達のスポーツになった」と報告し、「スノーボーダーは消えた」とも書いた。ところが、年末年始の数日間、老人達に混じって若い人の姿がわずかながら見られ、スノーボーダーも「あっあそこに2人居た、あそこに2人いると広いスキー場の中に10人程見かけたのである。こうした現象をどう考えたら良いのか私は今悩んでいる。
ここの末娘フランチェスカに意見を聞いてみた。彼女の見解は「ボードをやっていた子がここ数年スキーに転向したけど、スキーは簡単におぼえられた。それで又、ちょっと危険な遊びに戻ってみたくなったのではないか」というもの。うなずける見解だが、そのボーダーをたくさん見たのはわずか2,3日であった。その理由は、ミュンヘンのスポーツ店が募集したボーダーのツアーが下の村にバスで来て安いペンションに泊まっていたという情報があって、なる程、転んでばかりいる初心者が多かった理由が判り、スキーコースのまん中に5人10人と雪の上に尻を下ろして、ただスキーヤーの邪魔になっている集団が居たのも判る気がする。果たして彼らがこれからもボードを続けるかどうかは、もう少し観察を続けなければ判定できないのではないだろうか。


スノーボーダーたち

大晦日は和服で

 


2006/2007シーズンリフト料金 昨年より値上げされています

◆何故、今なほ日本にはシュテムシュブングがあるのか

 さて、話を老人達のスポーツとなったスキーにもどそう。その老人達のすべりの中に、シュテムシュブングと呼ばれた技法が全く使われていないということに気付き、私は愕然としているのである。いつに間にシュテムシュブングは消えたのだろうか。
かって1955年に発表された古いオーストリアスキー教程は、世界中のスキーヤーに信奉され、スキーのバイブルとまで信じられていた。そのバイブルの中心にシュテムシュブングがあったのである。シュテムシュブングを身につけ、そこからパラレルシュブング、ウェーデルンと進むのがスキー上級者たちの夢であった。
その夢に大きな変革をもたらせたのは1968年の第8回アスペンインタースキーだったのである。


ホッホグーグルのゲレンデ シュテムシュブングは全く使われていない…

  ・ ・ ・ ・ ・
おことわり 「ここから先、アスペンインタースキーで起きた事を報告するのですが、それは先号にも触れ、また多くの私の出版物にもレポートしたことで、重複するものがたくさんあると思いますが、どうか我慢してお読みいただきたい。」

◆1955年に発表したオーストリア・スキー教程は誤り?

 雪の上での公開演技の日の前のレクチャーで、オーストリアスキーの創設者、シュテファン・クルッケンハウザー教授が講演し、「私たちが創作し、1955年に発表したオーストリア・スキー教程は、大きく変更すべき時を迎えている。それは、前教程は世界のトップレーサー達の技法を分析して生み出され、世界中の人々に受け入れられた。しかし私たちはその教程が誤りでなかったろうか、と考えるようになり、今度は、スキーを誰にも習わない子供たちが、どんなスキーをやりどう成長して行くかを慎重に観察してきた。その結果私たちは明日発表する全く新しいスキー指導法にたどりついた。皆さん明日の雪の上に注目してください」
このクルッケンハウザー教授の言葉に会場はどよめいた。次の日、アスペンは無風快晴、世界の全ての国々の代表達に囲まれてオーストリアの新しい指導法が展開された。
デモンストレーションの主役は何と学令に達するかどうかの幼児たちの集団であった。楽しそうに斜面いっぱいに広がって滑る子供たちのスキーは、目をみはるほどスムースで力強いものであった。共通する技術要素は、両スキーを左右に開いた当時ブライトシュブングというスタンスをとり、内側のスキーを雪面に常につけていること、そしてかなり短めのスキーをはいていることなどであった。
子供たちが滑ったあと、サンクリストフの名教師たちが、子供たちの技術を丁寧に再現してみせた。実に自然なものであった。かってオーストリアスキーに見られた、強い前傾、外傾が消えていた。

◆モータードライブ付のニコンS2のモーターがうなり続けた

 わたしは一瞬も見落とさない様に、私が開発に参加して仕上がったモータードライブ付のニコンS2のモーターがうなり続けて、まわりの各国のカメラマン達を驚かせた。その日私が使用したフィルムは20本を越えていた。
帰京してすぐにM新聞社に行き、直ちに写真部の暗室で約100本にもなるかというフィルムを現像し、プリントを作り、Mグラフの編集部で担当の小沢記者にそのネガを前に、アスペンでの出来事を報告した。「これは大変な仕事だったね、グラフは何頁使ってもいいから特集を組みましょう。そうだその題名は、”世界のスキーは今。”で行きましょう。思いっきり書いてください」と言った。それから毎日、朝から晩まで暗室にこもり、編集部の机の上に写真をひろげた。
そんな作業が何日か続くうちにアスペンで起きた事が徐々にはっきりして来た。オーストリア、フランスの世界のスキー界を二分する始祖国が大きくその技術の流れを変えた。それが最大のテーマになる。私たちは確信していた。「この二つの国の技術革新に大きく頁をさこう」 私と小沢記者の考え方は固まっていた。
そうした作業を進めている時、アスペンの事務局から、ぶ厚いレポートが送られてきた。その中身はアスペンで起きた全てが入っていた。各国の論文は、そのままコピーされ、主要国オーストリア、フランスの論文には英語訳がつけられていた。小沢記者は外語大出身の語学のエリートであった。彼は2晩その報告書を自宅に持ち帰り、その全てを読み下していた。小沢記者の読解力によった私たちの作業は一気に前進した。

◆オーストリアスキーは全面的に変わった

 オーストリアが提出したクルッケンハウザー教授、ホッピヒラー教授二人の共著はどこの国の論文より私たちにとって重い意味を持っていた。
オーストリアスキーは全面的に変わった。
その最大のテーマは、プルークボーゲン、シュテムボーゲン、シュテムシュブングと段階的に技術を積み上げ、パラレル、ウェーデルンに進化させるという古いオーストリアの教程を廃して、まず最初にグルンドシュブング(基礎回転)を習得させ、そこから横に並列に並ぶ上級技術、パラレル、ウェーデルン、ウムシュタイクシュブング、シュテムシュブングに進むという、段階指導から併行指導法への変換である。オーストリアはこの新しい指導法をトータルスキーイングと呼んだ。
最初からまとまったターンとしてのグルンド・シュブングを教え、それを上級技法に直接結びつける、まさに画期的な指導法の転換であった。
世界のスキーは、アスペンから流れを変える。私たちの確信であった。この歴史的な事実をどう日本のスキー愛好家に伝えるのか。私は細心の注意を払って大特集を仕上げた。このグラフを見た人は、世界の新しい流れを理解してくれるはずと自信を持ってMグラフの特別号を送り出した。


志賀さんからいただいた原稿をそのまま掲載

◆日本は古いオーストリアスキーを踏襲

 どんな反応が読者から帰ってくるか楽しみであった。何人かの知人たちから「すごい事をやりましたね」「旧オーストリアスキーに感じていた疑問がこれで解消しましたね」といった意見は、私の仕事を理解してくれた人々であった。ところが思いもかけない反応がSAJから聞こえてきた。
「オーストリアスキーは一言半句も変わることはなかった」と、教育本部長が語った。と言うのである。
この発言が、今日本のスキーを世界から50年おくらせる原因を作ったのである。日本は最初に参加した第7回のインタースキー(1965年)で「日本は古いオーストリアスキーを整然と華麗に演じて見せた」と評価されたが、その時でも世界のスキー指導者はオーストリアスキーが旧来のものから変化していることに気付いたのである。
そして1968年、オーストリアの全く新しい理論が発表されたアスペンでも日本は相変わらず古いオーストリア教程にそった発表を行って、世界の人々を驚かせ、地元の新聞には「日本はまだ古いオーストリアスキーを踏襲している」と驚いて見せた。
そして続く1971年ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘン(GAPと略して呼ばれる)での第9回インタースキーでもなほ日本は古いオーストリア教程に縛りつけられていた。
長い間、オーストリアスキーに傾斜していた国々がそれぞれの自らの主張を発表して「世界中の国がそれぞれ、同じ技法と見える沈み込み技法を採用、それぞれに別々の名称をつけて発表した。」と評論を書いたが、日本がまだ古いオーストリアスキー技法にこだわり、新技法はその上の付けたしであった。と見解を語っている。

◆日本の曲進系技法と呼ばれていた新技法が演じられた

 しかし、このGAPで日本が誇れる行事があった。それは、インタースキーの最終日、クルッケンハウザー教授の提案で突然実施されたターフェルピステ(悪魔のピステ)と呼ばれる凸凹の斜面で世界中の新技法を比較しようという試みであった。各国2人から3人の名手が選ばれたが、日本からは4人が指名されたのである。藤本進、平川仁彦、丸山周司、関健太郎の4人は、世界のトップデモ達と混ってその難斜面に挑んだ。オーストリアのヴェーレンテクニック、ドイツのシュロイダーテクニック、スイスのOKテクニック、フランスのアバルマンテクニックに混って日本で曲進系技法と呼ばれていた新技法が演じられた。
人工的に造られた深いコブに埋めつくされたピステは世界の名手達を苦しめていた。その中で日本の4人は楽しそうにスムースにその難局面をこなしていた。周囲から賞賛の声が上がった。取材していた私達もうれしくなった。


藤本進

平川仁彦

◆発端はパンチョターン

 GAPのインタースキーの数日後、私はサンクリストフのブンデスハイムを訪れた。二人の教授に会うためである。二人とも日本のデモンストレーター達の技術の高さをたたえ、日本のスキーはこれから世界のリーダーになるだろうと望外の賛辞をいただいた。そして、あの技術はどう生み出されたのかと聞いて来た。その当時の私の語学力では答える術はなかった。残念なことであった。
私は、その技法がどう発想されどう分析され、どう構成されたか、を知っていた。研究の中心に居た西山実幾さんを従前からよく知っていて志賀高原薬師の湯の帳場のいろりをかこみながら、熊の湯の温泉につかりながらいろいろな話をしていたのである。
研究の発端は5年程遡る。第8回インタースキーの代表デモ選で、誰ひとり滑り降りることの出来なかった黒菱の春のくされ雪の難斜面をこともな気に滑り降りた佐藤勝俊君の技術が注目され、パンチョターンと名付けられ、多くの研究者によってその分析が試みられることになった。


佐藤勝俊
パンチョターンのすべて

西山実幾さん
JAPANスキーの素晴らしき人達
1987の記録 長尾幹夫写真集より


◆研究グループ

  その研究グループの中に、西山実幾さんたちの関西の若い学者グループがあった。西山さんはその当時教育本部長であった。多くの資料が西山さんの元に集められた。その上、西山さん達のグループはパンチョの実家である熊の湯に合宿、パンチョが自分の庭と考えている前山の急斜面の深雪を滑る姿を映画や分解写真にとり、それを資料に研究を重ねていた。私の分解写真も役に立ったはずであった。
パンチョターンの研究は、「屈膝、平踏み先落とし」とするターン前半の動きを解説し、「沈み込み、けり出し」とする用語を生んだ。
1971年サンクリストフでヴェーレンテクニックが発表されるや、日本中に沈み込み技法が充満し、ゲレンデは沈み込み技法の練習の場になった。それから2年、日本の新技法曲進系はGAPインタースキーで世界の人々を驚かせたのである。
私は今になって思う。「もし西山さん達の研究が尚続けられ、それに伴って指導法が確立されていれば、日本は新しい世界のスキー界をリードする国として注目されるようになっていたはずである。
サンクリストフで二人の教授から寄せられた期待は、そうゆう事を予測しての言葉であった。

◆忙しい日程の中に第9回インタースキーを割り込ませた

 この1971年という年は私にとって生涯いちばん忙しい年であった。というのは次の1972年サッポロで冬季オリンピックが開かれるとあって、日本の新聞テレビは多数の取材陣を送り込み、予備取材(どんな種目に各国はどう取り組み、どんな選手を送ってくるかの予測記事のための取材を新聞社はそう呼んでいた。)に熱中していた。その当時私が在籍していたM新聞社はその予備取材をひとりでやれと過酷な命令を送ってきた。アルペン競技に熱中していた私は、ジャンプ、ラングラウフ、バイアスロンと取材の幅をひろげ、さらにスケート競技や、フィギャースケートにも足を伸ばしていた。一日の休みもなくさまざまな競技場に顔を出した。その忙しい日程の中に第9回インタースキーを割り込ませたのである。
帰国してからGAPインタースキーのレポートをスキー雑誌に投稿しようと思ったけれど新聞社の仕事があまりに忙しく日本のデモの評価がどれだけ高かったかを書くことができなかったのです。

 ◎ここから先に前号28の最終章の8行につながります。

以上

 


連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
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連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
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連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
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連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

連載世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
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連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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