【連載19】いい競争は審判員の視点にかかっている Shiga Zin
※連載19は、連載18からの続きとなります。
スキージャーナル誌 1987年7月〜8月号での連載 |
◆審判員が語る技術選の将来とその展望 前編 (スキージャーナル誌)
志賀仁郎(司会)
佐藤俊彦(東北ブロック)丸山隆文(甲信越ブロック) 山田隆(南関東ブロック) 片山強(甲信越ブロック) 前回は約20年程前1987年「技術選」で審判員を務めた4人の人々に審判員としての自らの姿勢、そして彼らが考えていた技術選への夢を語ってもらったと書いた。今回はその続編として4人の語った技術選手権大会について目についた話を紹介したい。
改めてその4人を紹介しよう。
◆佐藤俊彦
佐藤俊彦、デモンストレーター選考会と呼ばれていた時代、ZAOのトシちゃんと呼ばれていた蔵王温泉スキー場の名教師であり、1968年アメリカアスペンの第8回インタースキーの日本チームの中心にいた名デモンストレーターであった。デモンストレーターを引退後は地元蔵王に帰り、スキー教師を続けながら、東北ブロックの技術員となり、後進の指導育成に当たっていた。
◆丸山隆文
丸山隆文、日大在学中はインカレ、全日本のアルペン競技にトップレーサーとして活躍、アルペン競技から身を引いてすぐ八方尾根スキー学校の教師となり1971年デモンストレーター選考会に出場することになった。競技上がりの選手が、早さ切れを武器に戦う時代に合って、基礎スキーの正確で美しいスキーを身に付けて、名デモンストレーターと呼ばれる地位を獲得している。
1974年の第10回ビソケタリインタースキーの主要メンバーであり甲信越ブロックの技術員として甲信越のスキー学校から数多くの名デモンストレーターを生み出した指導者であった。◆山田隆
山田隆、といってもご本人をイメージすることは難しい。というほどBOYAの呼び名はポピュラーであろう。日本のスキーヤーでBOYAのセーターを着たことのない人が何人いるだろうかと言う程、売れたセーターの売り出し人である。だがご本人は、本気でスキー教師を目指し、デモンストレーターを目指したスキーヤーであった。1971年デモンストレーターになってからも、誰も山田と呼ぶことはなかった。デモンストレーターを引退後は、神奈川県の技術員から南関東の専門委員となり、今、全日本スキー連盟の広報委員長を務め、私のこの連載の責任者でもある。
◆片山強
片山強、石打スキー場の主と言える片山秀男先生のひとり息子、子供の頃からスキーに親しみ、デモンストレーターを目指した。1971年から参加、1979年の第11回蔵王インタースキーの日本のデモンストレーターを務めた。この座談会に出席した審判員の中ではいちばん若い。
◆本当にスキーのうまいのは誰かをさぐる時代
この座談会が企画された時代を紹介しておかなければならないだろう。それは、日本のスキー界が、正確で美しいものを求めていた時代から、速さ、切れが評価される大きな変換期にあった時代であり、スキー教師のトップを決めるという大会から、本当にスキーのうまいのは誰かをさぐる時代であり、アルペン競技の世界から基礎スキーと呼ばれていた分野に多くの名手が参加するような時代に移行する過度期にあった。
小林平康が滑り、渡部三郎が行き、斉木隆、金子裕之、出口沖彦らが、この世界に参入してきた。また、その時代1970年代の後半から1980年代にかけては、日本のスキーマーケットが異常な拡大を見せていた時代でもあった。
ワールドカップを戦ってきたアルペン競技のスペシャリストが、それぞれのスポンサーメーカーの要請を受けて、技術選手権大会に参入して来たのである。
「ここに参考のために、1981年から90年までの技術選手権、デモンストレーター選考会の上位の名前を上げておく」
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第2回 (第18回) 基礎選 八方尾根 |
第3回 (第19回) 基礎選 八方尾根 |
第18回 デモ選 八方尾根 |
第4回 (第20回) 基礎選 網張 |
第21回 基礎選 大鰐 |
第19回 デモ選 大鰐 |
第22回 基礎選 大鰐 |
第23回 技術選 八方尾根 |
●男子 @佐藤正明 A吉田幸一 A相田芳男 C佐藤正人 D渡部三郎 E小林平康 F工藤雅照 G石井俊一 H太谷陽一 I山田博幸 I丸山貞治 K宮津久男 L紺野光弘 L勝見新助 N森林之助 O高柳知巳 P中林正樹 Q鈴木良雄 R星野正晴 S小熊恵一 |
●男子 @佐藤正人 A佐藤正明 B渡部三郎 C相田芳男 D細野 博 E細野正晴 F紺野光弘 G小熊恵一 H工藤雅照 I吉田幸一 J勝見新助 K太谷陽一 L石井俊一 M高山重人 N丸山貞治 O柴田 強 P達下系一 Q森林之助 R宮津久男 S山地光則 |
●男子 @佐藤正明 A佐藤正人 B太谷陽一 C相田芳男 D工藤雅照 E山田博幸 F宮津久男 G吉田幸一 H星野正晴 I細野 博 J高山重人 K石井俊一 L小熊恵一 M丸山貞治 N勝見新助 O紺野光弘 P渡部三郎 Q柳橋泰久 R出倉義克 S達下系一 |
●男子 @佐藤正人 A小熊恵一 B吉田幸一 C工藤雅照 D柳橋泰久 E細野 博 F達下系一 G勝見新助 G高山重人 I星野正晴 I渡部三郎 K太谷陽一 L石井俊一 M宮津久男 N山田博幸 N紺野光弘 P小野塚善保 Q丸山貞治 R小山和人 S畔上親良 |
●男子 @細野 博 A佐藤正人 B吉田幸一 C竹村幸則 D石井俊一 E工藤雅照 E渡部三郎 G細野正晴 H出倉義克 I高山重人 J小関和美 K柳橋泰久 L布施 徹 M小熊恵一 N出口沖彦 O勝見新助 P桟敷孝治 Q紺野光弘 R吉里敏章 S千明俊和 |
●男子 @佐藤正人 A石井俊一 B工藤雅照 C星野 博 C吉田幸一 E星野正晴 F高山重人 G渡部三郎 H柳橋泰久 I小関和美 J勝見新助 K出倉義克 L小熊恵一 M小野塚善保 N布施 徹 N紺野光弘 P後藤勝美 P淀 英男 R山田博幸 S桟敷孝治 S 関口 淳 |
●男子 @佐藤正人 A紺野 博 B渡部三郎 C出口沖彦 D竹村幸則 E高山重人 F関口 淳 G斉木 隆 H小野塚善保 I星野正晴 J吉田幸一 K布施 徹 L石井俊一 M大平成年 N桟敷孝治 O出倉義克 P小熊恵一 Q柳橋泰久 R春日 孝 S千明俊和 |
●男子 @渡部三郎 A佐藤正人 B金子裕之 C吉田幸一 D小野塚善保 E斉木 隆 F小林和仁 G石井俊一 H竹村幸則 I出倉義克 J大平成年 K関口 淳 L浜辺秀樹 L里吉敏章 N沢田 敦 O森林之助 P山本広富 Q河野一人 R細野 博 S前山朋洋 S望月弘文 |
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第20回 デモ選 八方尾根 |
第24回 技術選 八方尾根 |
第25回 技術選 八方尾根 |
第21回 デモ選 八方尾根 |
第26回 技術選 八方尾根 |
第27回 技術選 八方尾根 |
第22回 デモ選 八方尾根 |
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●男子 @佐藤正人 A吉田幸一 B渡部三郎 C小野塚善保 D細野 博 E竹村幸則 F斉木 隆 G関口 淳 H石井俊一 I出倉義克 J里吉敏章 K勝美新助 L望月弘文 M淀 英男 N前山朋洋 O大平成年 P小熊恵一 Q柳橋泰久 R高山重人 S紺野光弘 S森林之助 |
●男子 @渡部三郎 @佐藤正人 B金子裕之 C里吉敏章 D竹村敏章 E吉田幸一 E小野塚善保 E榎並雪彦 H出口沖彦 I斉木 隆 I柳橋泰久 K石井俊一 K大平成年 K渡辺一樹 N望月弘文 O我満嘉治 P森林之助 Q関口 淳 R千明俊和 S小野浩稔 |
●男子 @渡辺一樹 A佐藤 譲 B大平成年 C渡部三郎 D沢田 敦 E佐藤正人 F出口沖彦 G竹村幸則 H斉木 隆 I里吉敏章 J金子裕之 K吉田幸一 L小林和仁 M榎並雪彦 N石井俊一 O望月弘文 P我満嘉治 Q関口 淳 R山本広富 S沢田 敦 |
●男子 @吉田幸一 A佐藤正人 B竹村幸則 C渡部三郎 D里吉敏章 E大平成年 F出倉義克 G石井俊一 H斉木 隆 I関口 淳 J小野塚善保 K望月弘文 L渡辺一樹 M細野 博 N柳橋泰久 O小林和仁 P出口沖彦 Q小野浩稔 R山本広富 S沢田 敦 |
●男子 @渡辺一樹 A斉木 隆 B渡辺三郎 B佐藤 譲 D沢田 敦 E大平成年 F金子裕之 G我満嘉治 H望月弘文 I出口沖彦 J吉田幸一 K竹村幸則 L佐藤正人 M小林和仁 N山本広富 O小野浩稔 P榎並雪彦 Q谷川和久 R山田誠司 S石井俊一 |
●男子 @佐藤 譲 A渡辺一樹 B斉木 隆 C森 信之 C沢田 敦 E渡部三郎 F金子裕之 G大平成年 H我満嘉治 IC・ダビデ JL・ファビオ K佐藤正人 L山田誠司 M出口沖彦 N望月弘文 OT・メアノ P竹村幸則 QH・アゲラー R山本広富 S三上慶孝 SP・ニコラ |
●男子 @斉木 隆 A渡部一樹 B金子裕之 C大平成年 D佐藤 譲 E渡部三郎 F吉田幸一 G我満嘉治 H佐藤正人 I沢田 敦 J竹村幸則 K山本広富 L出口沖彦 M石井俊一 N森 信之 O山田誠司 P里吉敏章 Q望月弘文 R小林和仁 S小野塚善保 21細野 博 22柳橋泰久 23出口義克 24小野浩稔 25三上慶孝 |
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◆早大のアルペンのエース我満嘉治が出場して来た
この座談会が行われた1987年は、八方尾根が異常な熱気につつまれた年であったと言っていい。それは、この年から技術選手権大会に学連の推薦枠が認められて、早大のアルペンのエース我満嘉治が出場して来たのである。早大在学中にインカレのGSに優勝という誇り高い成績を引っさげての登場であった。
八方は、緊張していた。審査員にも、その緊張は伝わっていたはず。「我満の滑りに何点が出るか」、コースを囲むファン達も、それを待っていた。しかし、八方尾根は何の波乱も無く進行していった。藤本進が指導する藤本厩舎と呼ばれたグループが各種目の上位を占め、渡部三郎、佐藤正人がトップを争い、吉田幸一がそれを追っていった。その図式の中に、競技の世界からの参入者、金子裕之、出口沖彦、斉木隆が種目別に上位をうかがうという状況が生まれていたのである。
我満の滑りは低速種目から始まったが、大観衆が納得するスキーは見られず、10位11位前後の得点が記録されていた。インカレの優勝者といってもこんなものか、の空気が、八方尾根を覆っていた。
この大会の最終種目のひとつ前、兎平の急斜面で、大きな動きがあった。総合滑降と呼ばれた種目で、我満がトップとなったのである。
その滑りは果敢であり、目を見はらせるほどのスピードのあるものだった。斜面を囲むギャラリーに歓声が上がり、見ていた誰もが、「ようやく我満らしい滑りを見た、とする満足感があった。審判員の上げる評価点に再び大歓声が上がった。98点を出した審査員が居たのである。
それまでに滑り終えた、金子裕之、佐藤正人、吉田幸一、渡部三郎らをはるかに凌ぐ高得点293点が出た。この得点は、私の知る限り、それまでの技術選で記録されたことのない高得点であった。得点は、5審3採で行われるので、この293点という得点を分析してみると、5人のうち2人か3人が98点を出し、ひとりか2人が97点、そしてひとりがそれ以下という、とんでもない評価を下していたと言うことだ。この種目の結果は、1位我満293点、2位佐藤正人291点、渡部三郎は290点で3位となった。
◆スキージャーナル誌 4人の審判員による座談会(再録)
スキージャーナルの4人の審判員による座談会でも、この総合滑降の順位について話題が大きなウエイトを占めていた。その部分を掲載された当時のまま、ここに再録してみたい。
片山審判員 〜 胸がドキドキするような感動を覚えた
たとえば僕が驚いたのは総合滑降での我満嘉治選手の滑りなんですが、何かすごく嬉しいような、胸がドキドキするような感動を覚えたのですけれどね。
僕自身はスキーというものは、競技スキーも基礎スキーも差はないと思っています。つねにそうした目で見ようと考えていますから、あの難しい条件の中であれだけの滑りが出来る。全力で自分の力をぶっつけていく、そうした演技に感動します。最近はそうした滑りが多くなってきた。ギャラリーもそうした演技に触発されて自然に沸いてくるもんじゃないかという気がします。
予選も含めて1人の審判員は850人を見る志賀(司会) 〜 状況の変化から、途中からだんだん得点が高くなる状況が
我満君の293点と渡部三郎君の290点、その辺に僕はちょっと引っ掛かるものがあったのです。それは、我満君の滑った時の状況と三郎君の滑った時の状況、そして、佐藤正人君の滑った早い時間のバーン条件が、かなり違っていたと思うわけです。早いスタートになった正人君の頃はカチンカチンのアイスバーン、コブも鋭くとがっているという難しい斜面、それが競技が進行するうちに気温が上がり斜面がゆるみ、条件が良くなって来た。我満君が滑った頃には、かなり滑りやすい状況が生まれていた。
そうした状況の変化から、途中からだんだん得点が高くなるという状況が生まれていたのではないかと思うわけです。審査員は、それを調整していたのかどうか、それが気になっていたのですが。片山審判員 〜 得点を調整したという意識はない
天気が良く気温が上がっていましたから、斜面がゆるんできているなとは、思っていましたが、最初に出した得点との相対的なバランスの上で得点を調整したという意識はありません。
志賀(司会)
そうすると、単純に後半滑った選手の方があなたの目から見てうまく滑ったということですね。
佐藤(審判員) 〜 競技途中で条件が変わったとしてもそれは運、不運しなかい
総合滑降は私たちのジャッジをした種目ではないのですが黒菱の斜面での急斜面ウェーデルンでも同じような状況でした。端的に言いますと、採点する立場からは、見る目を変えることは出来ないのです。同じ条件に2人ならべて、どっちがうまいかということなら出来ますが、徐々に条件が変わる中でそれを勘案しながら得点を調整するということは不可能です。だから、急斜面ウェーデルンで、最初の頃、滑った金子君が、失敗したとしても、それは運、不運ということで片付けられても仕方のないことだと思うのです。
滑る時の条件の変化はアルペン競技では普通に起きていることですから。
ゴールエリアに停止するまで審判員の厳しい目が…志賀(司会者)
そうゆうことでしょうね。スキーは自然を相手にしたスポーツだから、運、不運というものはあるでしょう。ところで片山さんと同じ種目をジャッジした山田さんはどうゆう印象を持っていますか。
山田(審判員) 〜 基準ではそれぞれ違っていて、それはそれでいいと思う
我満君もうまかったと思うのですが、僕は三郎君の滑りが良かったと思ったんですけどね。三郎君は最初からコースのとり方、演技の見せ場を考えて戦略どおりに意図した中でかなりうまく滑った。コブの処理の方法、尾根の通り方など、すべて頭の中に入っていて実にスムーズに滑り終えた。その外にも金子君がいい滑りを見せた。と思ったんです。僕の見ている基準と片山さんが見ている基準ではそれぞれ違っていて、それはそれでいいと思うんです。
志賀(司会者) 〜 審判員の判断に日本のスキーの将来が見える
我満君の演技について片山さんは非常に高得点98点をだしましたね。同じ組の山田さんは95点ぐらいでしたね。その差は二人のスキーについての視点の違いを見せていると思うのです。僕は、コースのすぐそばで見ていて感じたことを言わせてもらうと、三郎君はあの斜面で実にいいスキーを見せた。コブの急斜面を終えて、ショートターンをコントロールして、後半の尾根になった斜面にスムースな大きいS字のコースを選んでゴールに入った。あの斜面を滑るコース採りのうまさ、そうした面から見て三郎のスキーは完璧だったと思ったのです。そのあと我満が滑った。それはまさにすごいなというスキーで、三郎君が通った同じ斜面を真直ぐ直線でゴールに飛び込んだ。観衆も皆んなウォーと声を上げていた。まさに衝撃的な滑りだったと思うのですが、三郎君の滑りをいいとするか、我満の果敢さを評価するか、審判員の判断に日本のスキーの将来が見えると思うのです。
ところで、基礎種目といわれる中斜面ステップターンや中斜面ウェーデルンに対しては、どうゆう視点で採点しているのかを伺いたいと思うのですが。丸山審判員 〜 基礎技術についての僕の考え方は、あくまでも正確無比な演技
基礎技術についての僕の考え方は、あくまでも正確無比な演技であり、流れの中で理にかなった滑りというものを具現できる人が高く評価されるべきだろうと。
個性をうまく生かしながらも、要求された動きに対応できる幅の広さが基礎種目には求められていると思うのです。志賀(司会者)
じゃぁ、端的に聞きますが、誰のスキーが好きですか。
丸山審判員
吉田(幸一)選手とか、佐藤(正人)選手とか、小野塚君も正確ないい滑りをしていると思います。
各部署に配置された競技役員の熱意が
この大会のボルテージを上げている志賀(司会者)
昔のデモンストレーター選考会的な視点から言えば正人君や小野塚君に高い得点が出るのは当然だと思う。だけどこれは僕の勝手な好みを言えば、僕は吉田君とか石井(俊一)君とかの滑りには、よりセンスを感じるんですね。その点正人君とか小野塚君の滑りは、日本の教科書的な硬さがある。片山さんは、そうした面でどんな視点をもっていたのだろうか。
片山審判員 〜 シルエットを重視する滑りには高い評価は出さない
僕が中斜面種目(基礎種目)を見るときは先ずバランス、それに雪面とのコンタクト、そこを重視してみているのです。その結果、シルエットが美しいというのが理想で、シルエットを重視して演技しているという滑りには高い評価は出さないですね。
志賀(司会者)
シルエットはきれいなんだけどスキーがブレている様なスキーがありますね。その辺りの評価は審査していても難しいところでしょうね。特に基礎種目はみんなのレベルが平均化していて、昔のように差を見付けるのが難しくなっています。そうした状況の中では、名前の通った選手たちが有利になるということがある。
丸山審判員 〜 ビックネームのミスをミスとして減点できるかが審判員の評価
僕自身の考え方は、名前が売れているのも選手の力だと思うのです。彼らは彼らなりにひたむきな努力をし、その地位をつかみ、名前を知られるようになったのですから。
しかし、トップクラスの名前がコールされたからと言って、我々は特別な目で見ることはありません。われわれは、その時の滑りで評価しますから、もしミスしたら普段どんなにいい滑りをしているのかとは見ず、これは競技なのですから、ミスにはミスとして減点しなければならない。それが果たしてきっちりとできるかどうかが審判員としての評価を決めるのだと思うのです。志賀(司会者) 〜 ウェーデルンの滑り方が全く違う2人の評価
話を再び、応用種目に戻しますが、急斜面ウェーデルンと言う種目が大変点差の開く種目になりましたね。
見ていて感じるのは、全く違った滑り方がある。ということです。ひとつは、今流行のモーグル的に、コブの前面にスキーをぶっつけて、身体だけは正面を向いて滑るタイプと、ひとつひとつのコブに対応して、ひと昔前のアバルマン技法、ヴェレンテクニック曲進系技法という吸収形の滑り方で、ひとつひとつのコブをキチン、キチンとまわって滑ってくるタイプとがあったと思うのですが、それをひとつひとつどう評価して点をつけたか聞いてみたいのです。
正人君と三郎君の得点が非常に高かったでしょう、だけど二人のスキーのやり方は全く違う。それが同じ高さで評価された、その辺はどう考えていたか。佐藤審判員 〜 早いだけでは高得点は出せない
その辺については事前に話し合いをしていたんですよ。モーグル的な滑りは技術選手権ではちょっと違うんじゃないか、しっかり弧を描いて滑るスキーでなければ早いだけでは高得点は出せないと。もちろん、ただ丁寧に滑ればいいというものではないけど、体操やフィギアスケートで言う芸術点みたいな、ワーッと感動する部分がプラスアルファーとして出せればいいのではないかと。ですから、我満君のスキーにいい点が出るとか、逆に失敗したけど金子君にはそんな低い点は出していないのです。
丸山審判員 〜 我満君の異質な滑りと、正人君三郎君のリズム感と安定感
我満君の異質な滑りが話しに出ていますが、僕はあの堅いコブの中でフォールラインを外さないで最後まで来れるという、その技術そのものは素晴らしいと思うのです。しかし実際に急斜面のウェーデルンというということを考えると、万人が持っているウェーデルンの常識とは違う。そうゆう観点から見ると、それぞれ個性は違いますが、リズム感がうまく調和されていて安定感がある正人君や三郎君に高得点が出たのはうなづけると思います。
金子君の滑りですが、前回、前々回の他の会場で素晴らしいスピードで高い評価を受けた。彼はそれが忘れられないんですね、観衆からすごい拍手と声援が飛ぶ、そうゆう中で時には大きな失敗をするということは、それはそれなりに、それだけの滑りしかできないのではないか、と評価するわけです。
八方の斜面は、人、人、人で埋め尽くされた
志賀(司会者) 〜 キャパシティ外の演技も個人の考え方の問題
自分のキャパシティの外で演技していると言うことですね。彼は4年前大鰐の大会でさっそうとデビューしたわけですが、次の年の大会では完全にコントロールを失ってしまった。そして八方へ戻った前回大会ではギリギリのコントロールに乗って高い評価を受けた。ところが今回は去年と同じようなことをやりながら、プッツンしてしまう。こうした滑りを見ていると本人のキャパシティがどのレベルにあるのか疑わしいということになる。もう少し抑えたところで演技してくれれば、彼の持っている技術、キャパシティの高さを認めてやりたいと思うのですが、彼はいつでも目一杯の滑りしかしないスキーヤーですから、それは個人の考え方、姿勢の問題ですから、我々が何かを言うことはないと思うのです。
丸山審判員
成功すれば大きいけれど失敗も多い。その滑りが高く評価されることはあるけど、それは技術選の場では危険があるということです。
志賀(司会者)
総合滑降で、見なければならないのは選手のパフォーマンスというか、その人が持っている潜在的な技術の高さ、また急斜面ウェーデルンでは、滑る選手の持っている質のどこを見るかが審査のポイントになっていたと思うのです。その辺で今回の技術選の審判は、説得力のある審査をしたと思うのです。
ここまでかなり長いレポートになったので、続きを次回にゆずって、4人の審査員の話をさらに紹介したいと思います。 (志賀)
◆我満は総合では16位であった
(2005年11月28日追加) この座談会が行われた1987年の技術選手権大会で注目された、学連推薦で初出場した我満は、観衆をわかせた総合滑降では種目別1位の高い評価を受けたが全種目を終えての総合順位では、平凡な16位にランクされている。
速さで注目された、元レーサー達、小林平康、渡部三郎、斉木隆、金子裕之、出口沖彦らのデビュー当時と比較しても、さして話題になる様な成績ではなかった。しかし、時代は大きく動き、我満は2年後の1989年以降、技術選手権大会の方向を指し示す、大きな道標のひとりとなったのである。
連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]
連載「世界のアルペンレーサー」 志賀仁郎(Shiga Zin)
連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]
※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。