【連載50】キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 Shiga Zin



ヨーロッパから帰国した翌日行きつけの寿司屋さんで

◆ ジャン・クロード・キリーは実に爽やかな青年であった

 私が初めてジャン・クロード・キリー、カール・シュランツの2人のスーパースターに会ったのは1968年12月初め、そのシーズンの開幕を告げるワールドカップ1969年の第一戦の会場フランスのヴァルディゼールであった。
滑降のトレーニングが始まり、街は沸き返っていた。
プレスセンターで割り当てられた街のど真ん中のホテルのバーへ降りていくと、賑やかな集団が酒を飲んでいた。その一群の中心にジャン・クロード・キリーが居た。彼はこの町の出身で街の誇りであった。
旧知のロシニョールのサービスシェフ、ミッシェル・エノンが、ジャン・クロード・キリーに私を紹介してくれた。ダイナスターのサービスマン、ジルベール・モラーが私を「世界一のスキーフォトグラファーだ。」と口を添えた。2人とも私の仕事「世界のスキー」毎日グラフのスキー特別号を見ていたのである。
ジャン・クロード・キリーは実に爽やかな青年であった。その年の1968年グルノーブルのオリンピックで三冠王となり、その年のワールドカップの総合優勝にもなった青年はその輝かしい戦歴に驕ることなく、彼を囲んだ多くのジャーナリストや多くのファン達に淡々と接していた。
その席に一瞬緊張が走った。誰かが「カールが来た。」と告げたからである。カールは入ってくるなり、チラッとその集団を見てすぐ出て行ってしまった。「ここは俺の来る場所ではなかった」と悟ったのだろう。


ジャン・クロード・キリー
志賀さんの写真集「スキーワールドカップ」より


アルペン競技が生んだ大スター
(上)グルノーブル・オリンピック三冠王ジャン・クロード・キリー
(下)サッポロの悲劇の人カール・シュランツ
志賀さんの写真集「アルペン競技」より

◆「世界でいちばん速いのは俺だ」カールは叫んでいた

  カールは好調であった。トレーニングの度ごとにベストタイムを出していた。ジャーナリスト達は誰もが「このレースはカールのものだ」と考える様になった。オーストリアの新聞は「カールの復活」とうたっていた。
このシーズンに入る前、カールは不調をかこっていた。「もうカールの時代ではない」そんな憶測が語られていたのである。
レース本番の日、私たちは早くからコースを囲んでいた。若い前走者が滑るのを見送っている私たちの耳に「アッタシオン、アッタシオン」の絶叫が聞こえた。そのアナウンスは「前走者の最後にジャン・クロード・キリーがスタートした」というものであった。
私は慌ててカメラをセットした。ほとんど間をおかず、キリーらしき姿がカメラにとらえられた。私がキリーの滑りを撮ったたった一枚の写真であった。
カールは走り続けた。本番の日も、全く他を寄付けない滑りで完勝した。世界中のマスコミがカールの完全復活を報じた。
その夜「カールの祝勝会をやるから来い」とクナイスルスキーのカールの専属サービスマン、エゴン・ショップに誘われた。
カールは上機嫌であった。多くのファンに囲まれて、大きな声でわめき立てていた。傲慢な男であった。「世界でいちばん速いのは俺だ」とカールは叫んでいた。



1972年サッポロ・オリンピック直後に作られた私の写真集「アルペン競技」
この本は世界中のスキー関係者を驚かせ、ZinShigaは、世界一のスキー写真家と
呼ばれることになった。
表紙はジャン・ノエル・オージェ(FRN) ベースボール・マガジン社

栄光を追い自らの青春の全てを賭け彼は一本の鋼鉄の矢となって走る。
人間の考え出したもっとも華麗な、もっとも危険な滑降は、冬のスポーツの華。
とぎすまされた鋼のエッジをも受け付けない堅いアイスバーン。
その上を時速100キロを越える戦慄の閃光が走る。
華麗なスピードの魅力、それがアルペン競技の全てだ。
カール・シュランツ(AUT) 1971 VALD’ISERE D.H.第1位


1974年サン・モリッツの世界選手権大会の頃、人間の住む極限から来た一匹狼、
インゲマール・ステンマルクを伝えるために、
私は、この「スキーワールドカップ」を発刊した。
この本の発刊によって「世界一のフォトジャーナリスト」と呼ばれることになった。
表紙はインゲマール・ステンマルク(SWD)  ベースボール・マガジン社

カール・シュランツ
志賀さんの写真集「スキーワールドカップ」より

◆シュランツはクナイスルで勝つ

  それから2年、サッポロオリンピックの年1972年シーズン、カールは好調に走り始めた。第1戦ヴァルディゼール、第2戦グローデン、年が明けて第3戦キッツビューエル(ハーネンカムレース)第4戦ウェンゲン(ラバーホルンレース)と勝ち続け、サッポロはカールのものとなるとの推測が流れていた。
そのカールに思いもかけないクレームがついた。IOC会長ブランデージが、アルペン競技のトップ選手は、「アマチュアというカテゴリーに入らない」と言って、7名の選手をオリンピックから除外すると発言したのである。その名簿の中にはオーストリアからカール・シュランツ、アネマリー・プロール、フランスからジャン・ノエル・オージェ、パトリック・リュセルといったトップ選手の名前があった。
指名された選手を持つ国々はその対応に苦悩していた。カールを持つオーストリアのホッピッヒラー監督は、私に「ZIN、われわれは明日カールと一緒にオーストリアに帰ることになるだろう」と告げた。
オーストリアの女王アネマリー・プロールはジャーナリスト達に「カールが出られないオリンピックなんて、やる意味がない」と泣きながら語った。IOCとサッポロのギリギリの交渉で、ブランデージは「カール・シュランツだけは許せない」と語っていたのである。「シュランツはクナイスルで勝つ」としたクナイスル社の広告だけはゆるせない。それがブランデージの思いであった。


スキーメーカー問題となったCM カール

◆カールはオリンピックの金メダルを持っていなかった

  カールにとってサッポロは特別な意味を持っていた。それは、それまでにカールは世界の全てのレースに勝ち、たったひとつだけオリンピックの金メダルを持っていなかったのである。ワールドカップの滑降に4連勝を飾ってサッポロに来たカールにとって、サッポロは唯一しかも最後のチャンスだったのである。
開会式前日の夜のチームミーティングで、カールは「俺ひとりのために世界中の若者たちの夢を奪うことはできない。俺は明日オーストリアに帰る」と語り、サッポロオリンピックを救った。
スーパースター、カール・シュランツひとりだけを生贄に差し出して、サッポロオリンピックは開催されたのである。この事件をきっかけにして、オリンピックとは何か、アマチュアの定義とは、プロと呼ばれるのはどういう基準によるのか、といったテーマが語り合われるようになった。
カールの帰国で問題が片付いたと思われていたサッポロだが、その傷はオーストリアチームにとって深い痛みを残していた。女子のスーパーエース、アルペン競技の女王と呼ばれていたアネマリー・プロールが調子を崩して、絶対負けるはずのない滑降、大回転の金メダルをスイスの田舎娘マリー・テレーズ・ナディックに奪われたのである。
カールが勝つと約束されていた男子滑降もベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバンのスイスチームのワン・ツーフィニッシュとなった。
スイスチームは、金3銀2銅1と6個のメダルを獲得して、アルペン王国の名をオーストリア、フランスから奪ってしまった。オーストリアは銀2銅2となっている。
カール・シュランツは帰国する空港でジャーナリスト達に囲まれ「貧乏人だって名誉を手に入れることが許されるべきだ」とアメリカの大金持ちのブランデージ会長に言葉を送った。


彼女はサッポロでこそ新鋭マリー・テレーズ・ナディックに破れたが、ワールドカップのレースでは
他をまったく寄せつけない圧倒的な強さで二年連続して女王の地位を占めている。
アネマリー・プロール 志賀さんの写真集「アルペン競技」より


連載
世界のアルペンレーサー 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載48 猪谷千春 日本が生んだ世界最高のスラロームスペシャリスト [08.10.01]
連載49 トニーザイラー 日本の雪の上に刻んだオリンピック三冠王の軌道 [08.10.01]
連載50 キリーとシュランツ 世界の頂点に並び立った英雄 [08.10.01]
連載51 フランススキーのスラロームにひとり立ち向かったグスタボ・トエニ [09.02.02]
連載52 ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生[09.02.02]
連載53 フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄[09.02.02]
連載54 スキーワールドカップはいつからどう発想され、どんな歴史を積み上げてきたのか[09.02.02]
連載55 東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック[09.02.02]

連載「技術選〜インタースキーから日本のスキーを語る」 志賀仁郎(Shiga Zin)

連載01 第7回インタースキー初参加と第1回デモンストレーター選考会 [04.09.07]
連載02 アスペンで見た世界のスキーの新しい流れ [04.09.07]
連載03 日本のスキーがもっとも輝いた時代、ガルミッシュ・パルテンキルヘン [04.10.08]
連載04 藤本進の時代〜蔵王での第11回インタースキー開催 [0410.15]
連載05 ガルミッシュから蔵王まで・デモンストレーター選考会の変質 [04.12.05]
連載06 特別編:SAJスキー教程を見る(その1) [04.10.22]
連載07 第12回セストのインタースキー [04.11.14]
連載08 特別編:SAJスキー教程を見る(その2) [04.12.13]
連載09 デモンストレーター選考会から基礎スキー選手権大会へ [04.12.28]
連載10 藤本厩舎そして「様式美」から「速い」スキーへ [05.01.23]
連載11 特別編:スキー教師とは何か [05.01.23]
連載12 特別編:二つの団体 [05.01.30]
連載13 特別編:ヨーロッパスキー事情 [05.01.30]
連載14 小林平康から渡部三郎へ 日本のスキーは速さ切れの世界へ [05.02.28]
連載15 バインシュピールは日本人少年のスキーを基に作られた理論 [05.03.07]
連載16 レース界からの参入 出口沖彦と斉木隆 [05.03.31]
連載17 特別編:ヨーロッパのスキーシーンから消えたスノーボーダー [05.04.16]
連載18 技術選でもっとも厳しい仕事は審判員 [05.07.23]
連載19 いい競争は審判員の視点にかかっている(ジャーナル誌連載その1) [05.08.30]
連載20 審判員が語る技術選の将来とその展望(ジャーナル誌連載その2) [05.09.04]
連載21 2回の節目、ルスツ技術選の意味は [05.11.28]
連載22 特別編:ヨーロッパ・スキーヤーは何処へ消えたのか? [05.12.06]
連載23 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その1) [05.11.28]
連載24 90年代のスキー技術(ブルーガイドSKI’91別冊掲載その2選手編) [05.11.28]
連載25 これほどのスキーヤーを集められる国はあるだろうか [06.07.28]
連載26 特別編:今、どんな危機感があるのか、戻ってくる世代はあるのか [06.09.08]
連載27 壮大な横道から〜技術選のマスコミ報道について [06.10.03]
連載28 私とカメラそして写真との出会い [07.1.3]
連載29 ヨーロッパにまだ冬は来ない 〜 シュテムシュブング [07.02.07]
連載30 私のスキージャーナリストとしての原点 [07.03.14]
連載31 私とヨット 壮大な自慢話 [07.04.27]
連載32 インタースキーの存在意義を問う(ジャーナル誌連載) [07.05.18]
連載33 6連覇の偉業を成し遂げた聖佳ちゃんとの約束 [07.06.15]
連載34 地味な男の勝利 [07.07.08]
連載35 地球温暖化の進行に鈍感な日本人 [07.07.30]
連載36 インタースキーとは何だろう(その1) [07.09.14]
連載37 インタースキーとは何だろう(その2) [07.10.25]
連載38 新しいシーズンを迎えるにあたって [08.01.07]
連載39 特別編:2008ヨーロッパ通信(その1) [08.02.10]
連載40 特別編:2008ヨーロッパ通信(その2) [08.02.10]
連載41 シュテム・ジュブングはいつ消えたのか [08.03.15]
連載42 何故日本のスキー界は変化に気付かなかったか [08.03.15]
連載43 日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか [08.05.03]
連載44 世界に並ぶために今何をするべきか [08.05.17]
連載45 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1) [08.06.04]
連載46 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その2) [08.06.04]
連載47 日本スキー教程はどうあったらいいのか(その3) [08.06.04]

※使用した写真の多くは、志賀さんが撮影されたものです。それらの写真が掲載された、株式会社冬樹社(現スキージャーナル株式会社)、スキージャーナル株式会社、毎日新聞社・毎日グラフ、実業之日本社、山と渓谷社・skier、朋文堂・スキー、報知新聞社・報知グラフ別冊SKISKI、朝日新聞社・アサヒグラフ、ベースボールマガジン社等の出版物を撮影させていただきました。

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